ㅤ仕事をやめても、相変わらず眠れなかった。
ㅤ諦めて散歩に出ると、帰りには登校途中の小学生とすれ違う。徒歩の人もいれば自転車の人もいる。ひとりもいれば複数の人も。校帽や制服の違いから、近隣には小中高合わせて五つくらいの学校があると知れた。そんなことも、知らなかった。
ㅤ前から来る小学生の青いパーカーに「帰りたい」と書いてある。白い文字がなんだか情けなく訴えていた。
ㅤ彼は給食袋らしき巾着をぶら下げ、ほてほてと信号を渡って校門の奥へ吸い込まれていく。門の脇に、垂れ幕があった。
「夢へ!」
ㅤ登校前から帰りたいと書かれた服を選んでしまう彼の夢が、果たされますようにと願いながら帰宅の途に着いた。
『夢へ!』
ㅤ私は心配されたかったんだ……。
ㅤそう言ってあなたは泣いた。
ㅤどうにも周りと違うみたいだってことは、何となく分かってた。だけどどう違うのかなにが違うのかは、うまく説明できない。ましてや、どうしたらいいのかなんてもっと分からなかった。
ㅤひとより頑張って頑張って、やっと『普通』の振りができた。なのに、出来て当たり前のことは評価の対象にならないよと言われるのだ。
「藤宮さんもう五年目でしょ? しっかりしてよ」
ㅤあなたと出会って、困っている出来事を話し、「あるある」「そうそう」と頷くとき、心の奥からふわふわの小鳥を、目の前に放ち合っている気持ちになった。
ㅤ私たちの鳥は小さくて、ビュンビュンとは飛べない。短い羽を必死に動かし、空中をジタバタと藻掻くように泳ぐ。互いの言葉は私にそんなふうに見えていた。
ㅤ元気かな。元気ならそれで、いいんだけど。
ㅤいや、必ず元気じゃなくてもいいよ。消えずに生きてさえ居てくれたら、元気じゃなくても別にいいんだ。
『元気かな』
ㅤ昔買った小説を久しぶりに読み返した。あとがきの手前で本を閉じ、膝に置いて天井を眺める。
ㅤ田舎町で育った少年とその家族の、冤罪にまつわる話だった。その地域にしかいないとされる珍しい蝶の様子が、姉と過ごした記憶と相まって美しく描写されていた。
ㅤ当時私はこのシーンが大好きだった。回想を何度も読み返すうち、舞台になった場所があることを知った。これといって有名な史跡も名物も無かったが、蝶の収集家の間ではかなり知られた村らしかった。
「五月になったら行きたいかも!」
ㅤ村のことを話したら、あなては興味を惹かれたようだった。蝶が舞うと言われる短い季節に合わせて行こうと、約束までしてくれた。私が車を出すからと。
ㅤまさかそんなに前向きに考えてくれるなんて。反応が意外すぎて、上手く返事が出来なかった。
「え、どの辺で待ち合わせる?ㅤあ、もしかして、どっかで泊まる?」
「気が早いって。まだまだ先だよ。半年以上あるんだし」
ㅤそう言ってあなたは笑い、それきり果たされることはなかった約束——
ㅤ物語の最後に主人公が見た蝶は、愛しい姉の化身だったのか、それとも死に際の幻なのか。
ㅤあの日のあなたの言葉は、幻や嘘にしようなんて意図は感じられなかった。けれど、私に真意は分からない。
ㅤ私に残るのはあなたの声だ。消えることのない、遠い約束。
『遠い約束』
ㅤ青空に舞った花びらの雨をおぼえてる。
ㅤ渡された小さな籠から振り撒いた、馬鹿みたいな笑顔と祝福の言葉。
ㅤ泣きながら叫び笑うという変な体験をした。
ㅤすぐそこを歩くあなたが、フィルムか絵画の世界のようで。
ㅤ二度と取ることのない腕に降り注ぐ色彩のシャワー。
『フラワー』
ㅤドアの前で一旦立ち止まり、僕は息を整えた。昨日からの陽気で一気に満開になった花びらがはらはらと舞うのを数秒眺め、ゆっくりと扉を引く。待ち合わせの相手は窓際の席に座り、文庫本を読んでいた。
「ごめん、お待たせ」
ㅤ法子が顔を上げる。読書を邪魔されて迷惑だとでも言いたげに。
「思ったより早かったね」
「いや、遅いよ。きみより二十三分遅刻だ」
ㅤスマホの待受を確認し、僕は向かいの椅子に座る。腕時計の針は適当に五分ほど進めているので、正確な時刻を知りたい時はスマホを見るようにしていた。
「おー、また記録更新したね。いま読んでる章が終わるまではかかると思ったのになあ」
「進歩してんだよ、僕なりに」
ㅤ法子はあははと笑って、
「行きたいカフェはまだまだあるから。この辺の新しい地図が脳内に出来上がるまで、付き合ってあげるよ」
ㅤと言いながら辺りを見回し「すみません」と店員を呼んだ。
「ブレンドひとつと、追加でチーズケーキください!」
ㅤ店員が去ると、
「美味しいんだって、ここのチーズケーキ。チーズ二種類使ってるらしいよ」
ㅤと法子は目を細めた。
ㅤ方向音痴を直したいなら目印を覚える訓練を繰り返すのが早道じゃない?ㅤ付き合ってあげるよ、と言ったのは法子だった。でも実際は、僕の方が彼女のカフェ巡りに付き合わされている。
ㅤ水のグラスを手にひと口飲むと、「すみません、チーズケーキもうひとつ追加で」と僕は声を張る。
「飲み屋じゃないんだから」
ㅤ口許に手を添えた法子が、文庫本をバッグにしまった。
『新しい地図』