きみと話していると時間が風のようだ。
あっという間に吹き過ぎて私は容易くさらわれる。
「そろそろ」ときみが言う。
「そうだね、そろそろ」と私は言う。
いちばん言いたいことはきょうも言えなくて。
届くわけのない言葉を言外に籠める。
「じゃあね、また」(好きだよ)
「うん、また」
「あっ、えと、風邪ひかないでね」(好きだよ)
「うん、敬ちゃんも」
「またね」(きみが好きだよ)
「何回言うの」と笑ったきみが、咲く花の潔さで手を振った。
風の中で遠ざかるあわい背中に私は呟く。
「……一回も、言えてないよ」
『好きだよ』
『お誕生日おめでとう!』
『元気にしてる?』
ㅤ久しぶりに立ち上げたトーク画面は、なかなか既読にならなかった。もしかしたら、今日は夜勤とかそんなことかもしれない。
ㅤ桜の時期に生まれた友達の、名前の奥で花びらが散っていた。この時期だけの季節限定背景だった。時折風が吹いたように、ピンクの欠片がふわりと舞う。
ㅤ前回やり取りしたのは半年前のようだ。つまりは私の誕生日。互いの生まれたお祝いごとにしか連絡してないってことかあ。
ㅤボヤいた瞬間、既読がついた。
『ごめんね、いま仕事おわった』
『どうしてるかなあ、と考えてたとこだったから元気そうで良かったよ』
ㅤニコニコマークの顔文字が並ぶ。
『ちょっと通話できる?』
ㅤ返事の代わりに着信画面が表示された。話したいことがありすぎる。私はオーディオのボリュームを落とし、応答ボタンをタップした。
『桜』
今日生まれのMちゃんに捧ぐ。
ㅤあの頃みたいにベランダに出てみた。
ㅤ同じ星を探して、通話をしてたあの夜。ぼんやり思い出してたら、肌寒さにクシャミが出る。ぶえっきしん!ㅤという声が、しんとした夜の只中にこだました。
ㅤ明日はまた気温が十度上がるらしい。この春はちょっとおかしい。一気に夏みたいになったかと思うと、不意に雪が積もったり。こうも気温が乱高下すると、話題としてはとっくに飽き飽きしていたけど、体感はまた別らしい。十七度という暖かさを私は上手く思い出せないでいた。
ㅤ暖かさを一度知ってしまうと、少し寒さが戻っただけで、真冬の辛さを軽く越えてしまう気がする。
ㅤ知らなきゃ良かった。
ㅤ言葉にして呟いてみたら、未練たらしくてアホすぎて、余計落ち込んだ。
ㅤ何を言ってもどうしようもないのだ。私が何を言ったところで、君には全然まったく少しも関係のないことなのだから。真実はひとつなのかもしれないけど、事実ってやつはきっと、人の数だけある。ただそれだけ。
ㅤそれでも私にははじめてだったから。寒さが厳しい時期に知ったあの温もりを辿って、ずっと大事にしていたかった。ずっと繋がっていたかったなあ、君と。
『君と』
ㅤ外に出たら、雨は止んでいた。
ㅤ久々の休日で昼までたっぶり寝たあと、借りた本を返すため、土砂降りのなか図書館まで来たのだ。
ㅤ貸出期限延滞の督促メールが三回届いて、電話が二回あり、先日はとうとう葉書まで受け取ってしまった。私一人にかけられた人件費を思うと胸が痛い、などと考えてしまうのはもしかして職業病だろうか。
ㅤ雨は一日降り続くと予報で言っていた。このために着替えるのは面倒だったけど、今日返さないとまた電話をもらってしまう気がして、頑張って出かけたのだ。豪雨の中をすぐに取って返す気になれず、来たからには少しだけ、なんて思ってるうちに、あっという間に閉館時刻が来ていた。
ㅤ微かに漏れ聞こえていた蛍の光が、ふつりと途切れる。振り向くと、エントランスは真っ暗だった。非常灯の青白い光が、周囲を幻想的に照らしている。夜の図書館では本たちが歩き回ってお喋りに興じるという、昔読んだ絵本を思い出した。
ㅤ空はまだ厚い雲に覆われていた。天気アプリを見ると、雨は二時間ほど前に止んでいたらしい。止むなら止むって言ってよね、と独りごちて、閉じた傘を腕に掛け、あたしは空を睨んだ。
ㅤブラブラと歩き出す。久しぶりに、時間を忘れて本を読んだ気がする。春先の淀んだ空気が雨に洗われたのか、街灯が照らす桜が三割増しくらい綺麗に見えた。
ㅤ灰色の雲のなか、空に向かって視界の左から右上へと小さな光が昇っていく。飛行機だ。こんなところを飛んでたとは知らなかったな。
ㅤまっすぐに空に向かっていく影は不思議なほど大きく感じられたけど、飛行音は聞こえない。意外と高いところを飛んでいるのかもしれない。
ㅤ小さな瞬きが灰色に馴染んで消えていくのを、なにか神聖な気持ちであたしは眺めていた。
『空に向かって』
ㅤはじめましてとあなたは言った。私の顔を平然と見て。なんの感情も籠らない眼で。
ㅤはじめましてと私も言った。丁寧に名前を名乗った。聞き返されることが多くてと、フルネームで二回、繰り返した。
「珍しいお名前ですね」
ㅤはじめて会った時の言葉を、あなたはまたそのまま言った。はじめて会ったのと同じ季節、まったく違う立ち位置で。
「佐賀には多いんですよ」
ㅤ私も同じ言葉を繰り返す。
ㅤあなたの顔に、ほんの小さくさざ波が走った。並んで見上げた地元の空があなたの裡に広がるのを、私は確かに感じていた。
『はじめまして』