未知亜

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3/21/2025, 2:41:49 PM

ㅤ君と最初に会った夜、あの繁華街の小綺麗な料理屋で、共に傾けた硝子の銚子の美しさを覚えている。利き酒をしようよなんて、名前も知らない日本酒を次々と頼んでみた初夏の宵だった。
ㅤひと口飲んではもっともらしい感想を述べる私にあなたは赤い顔を向け、満足そうに杯を傾けた。酒に酔った振りをして、私はあなたに酔っていた。このひとってこんな顔をするんだという、感嘆のようなものに。


ㅤ何度目かの小さな言い争いの果て、
「ちょっと仲がいいくらいの友達でいようよ」
ㅤと君は言った。
ㅤそれがいいのかも知れないとその時は思った。君を苦しめるくらいなら、君の決めたルールに沿って私がごめんなさいと謝ろうって。ただ元に戻るだけだと。
ㅤそして君との間に十五か月が過ぎた。会うことも話すこともせず、既読スルーを決め込む相手のことを、友達とは呼ばないだろうね。あれから私は、なんだか上手く笑えない。
ㅤあの日、店に向かう道すがら路地をくだる君の背中の向こうに見事な夕焼けが見えた。スマホの地図に目を落とす君の名を、私は背後から壊れたように呼ばった。
ㅤ振り向いた君の笑顔と、並んで君と見た日暮れの景色。妖しくも幻想的なそれは今も、確かに私だけの情景にちがいないけれど。


『君と見た景色』

3/21/2025, 9:06:42 AM

ㅤどこかから、洗濯機の回るぐわんぐわんという音がする。
ㅤまだ見慣れない天井に、もやのかかった光がプールから見た水面のようにゆらゆらと揺れている。
ㅤ微かに子どもの明るい話し声が聞こえるから、近所に小学校でもあるのかもしれない。
ㅤ隣には、すうすうと寝息を立てる幼い顔。小さなその指をキュッと握りしめる。
ㅤ今日と明日、何をして過ごそうか。しばらくはそれだけを考えようと決めた。仕事も住居も少し先でいい。ワーカーさんもそう言ってくれたのだから。
ㅤ目を覚ましたら、ゆうべもらったおにぎりを食べて、このあたりを歩いてみよう。
ㅤ今日からは二人。いまは誇らしい気持ち。この愛しい手を繋いでいられるなら、私はなんだってできる気がする。

『手を繋いで』

3/19/2025, 1:00:46 PM


ㅤ三月には珍しく雪の降った朝。小さな水の粒が、歩くうちにどんどん大きなぼたん雪に変わった。白に覆われた視界のなか並んで橋に差し掛かると、川には白い霧が立ち上っていた。寒さとは裏腹に、靄はまるで湯気のように見える。
「なんか温泉みたい!」
ㅤ橋の真ん中で立ち止まった私に、
「飛び込んでみたら?」
ㅤとあなたは笑った。
「これって、冬の始まる頃にに多くなかった?」
「だね」
ㅤ傘に積もった雪を落としてあなたが頷く。
ㅤ川の水と空気。熱さと冷たさ。その温度差が開けば、冬の終わりにも始まりのような現象が起こる。
ㅤもしかしたら、と私は隣をチラリと見る。いつもクールなあなたの、熱くなったところを見たことがない。熱さと冷たさが極端になれば、人からも湯気が出るのかな。
ㅤ大気に溶けるはずの湯気が、消える先はどこ?




『どこ?』

3/18/2025, 3:02:18 PM

ㅤ坂道で二人を見かけたのはまったくの偶然だった。その日はバイトに遅れそうで、近道をしたくなったのだ。ふだんはそんなところ通りもしないのに。
ㅤ先輩の後ろ姿は遠目からでもよくわかる。少しだけ右肩の下がった癖のある歩き方。自分だけが気づいてるんじゃないかなんて、あたしは少し自惚れてた。道の反対側に向かって、その時先輩が手を振るまで。
ㅤ夕暮れに寄り添った影が、深く容赦なくこの身を刺した。あたしは勢いよく回れ右をする。先輩に。自分の気持ちに。
——大好きだった。
ㅤムクムクと湧き上がる叫びを、歯を食いしばってあたしは潰す。
——本当は……すごく大好き。
ㅤあたしの心が、どうしてと泣く。


『大好き』

3/17/2025, 3:30:07 PM


ㅤ思えば必ずしも、あなたである必要はなかったのだ。
ㅤあの日声をかけてくれたのがあなただったから。最早あなたなしでは立てぬ私になってしまった。叶わぬ夢になってしまった。

ㅤ勝手がわからず困ったあなたは「尋ね易そうだから」という理由で私を選んだといった。
ㅤそんな風情を出していたらしい自分を、私は初めて誇らしく思った。私は困り果てたあなたの役に立つため、あなたに選ばれたのだから。それで恋を自覚したのだから。
ㅤけれど困っていたのはその時だけで。恐らく選んだ時と同じくらい気軽に、あなたは去ってしまった。その後の私が斃れて動けないなんて、思いもしないで。
ㅤあなたでなくても良かった。そんな未来が確かにあったはずなのに。叶わぬと知ってしまった夢に、今の私はただ沈むだけ。


『叶わぬ夢』

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