「ねぇ、どこまで行くの?」
ㅤ半ば小走りになりながら、私は問いかけた。彼女がこんなに早足だなんて、初めて知った気がする。
「いいからいいから」
ㅤ彼女は振り返ることなく、笑ってぐんぐん歩いていく。住宅街の細い路地を抜け、右に左に何度も曲がる。ここって私有地じゃないの?ㅤ大丈夫なのかな?
ㅤ街灯がまばらになって流石に少し不気味に思えて来た頃、ふと周りが明るくなった。目の前に開けた景色に私は歓声を上げる。
ㅤ花の甘い香りに包まれる。微かに水の流れる音がする。小さな川のせせらぎを覆うように、見事な桜が枝を張り出し咲き誇っていた。
「きれい……」
ㅤ私と彼女のあいだで、はらりと一枚花びらが舞う。
「でしょ?」
ㅤ彼女は自分の手柄のように胸を反らした。
「今日、悪かったね。付き合わせて」
ㅤ桜を見上げたまま、彼女がぽつりと言った。
「あんなメンツだって知ってたら誘わなかった。ごめん」
ㅤ私も桜を見ながら返事をした。
「ううん、逆に良かった」
ㅤそう言うと彼女が不思議そうな顔をする。
「だって、こんないい場所教えて貰えたからさ」
ㅤむしろラッキーかも、と笑うと、ポジティブだねえ、と彼女は私の髪に手を伸ばして桜の花びらを摘んだ。
ㅤこの景色を私は何度も思い出すことになる。彼女の指先と笑顔を、花の香りと共に。
『花の香りと共に』
ㅤそっちじゃないと心が騒ぐ。だけど私は進むのをやめられない。どうしていいか分からない。なぜこんなところに来てしまったのだろう。
ㅤはじめてついた嘘を覚えてる。磨いてない歯を磨いたと言った。母は追求したりはしなかった。ドキドキしながら布団に入った。その後も嘘は重なっていった。テストはまだ返ってきてないとか、あの子が悪口言ってたよとか。ひとつひとつは他愛ないこと。なのにそのたび、小さな心のざわめきをみていた。
ㅤつきとおしていれば、そのうち自分でもわからなくなって、本当だった気がしてくるのではないか。そんなことを思った。けれど、いつの間にか記憶の中でそこだけ色が違っていた。まるで警告を示すように、朱を帯びたまま積み重なっていく。いつまでも嘘は嘘のまま。
ㅤもう抜けられない……。
ㅤゆうべ誰かが呟いた言葉が頭の中にこだまする。身体がぶるりと震える。ぎゅっと目をつむり指で目尻を強く揉むと、まぶたの闇に朱色が混じった。
ㅤ目を開けて息を吸い込み、震える手で呼び鈴を押した。
『心のざわめき』
髪ゴム、イヤホン、パスケース。
なぜかみんな出かける直前に姿を消すの。
片足だけ靴をつっかけて
ポケットから小銭が散らばり
玄関先の時間がこぼれる。
駆けてくる君を迎えうつ私に
いつかなりたいと焦がれながら、
雨の日晴れの日曇りの日。
遅れた雑踏に君を探して。
『君を探して』
ㅤ営業終了まで三十分を切った入口フロアには、私たちのほかに誰もいなかった。直通エレベーターに乗り込んでひとつしかない行先ボタンを押すと、二人並んで一番奥のガラス窓前を陣取る。
ㅤこの辺に住んでいればここは定番のお出かけスポットで、友だちや家族とも何度も乗っているエレベーターだ。なのに、ダウンライトに照らされた今夜は、なんだかやけによそよそしい。
ㅤエレベーターは野球のホームベースに似た形をしていて、目の前のガラス窓は真ん中に向かって外に尖っている。これから向かう展望室よりも、むしろ美しい景色だと言われていた。
ㅤ扉が閉まり、エレベーターが上昇し始める。彼女はまっすぐ外を見ていた。口許を結んで、透明な壁に手を添えて。
ㅤ街の明かりが煌めいて、星空との境目に溶ける。この箱に包まれて、透明なトンネルをどこまでも飛んでいる錯覚に陥る。私をチラリと見た彼女が「きれいだね」と呟いた。心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと心配になる。
ㅤ唾を一度飲み込んで、ガラスに同じように手を添えた。「ね。きれいだね」と返す言葉が笑いそうなほど震えてしまう。ドキドキがまたうるさくなる。
ㅤ透明な箱は、夜空のてっべんへと昇ってゆく。私の指があなたに触れる。
『透明』
ㅤ小さな頃から、女であるってことに馴染まなかった。
ㅤ馴染まない、というのはちょっと違う気もする。しっくりこないというか、自分をそこに収めることに引っ掛かりを覚えるというか。そんな感じ。
ㅤ別に年がら年中そんなことを考えてた訳じゃない。性別欄に「男・女・ノンバイナリー」とあったら、悩むことなく「女」を丸で囲んでいたし。性別ってこの世に三つしかないのかなぁ、と思いながらも、この疑問を誰かと話したりすることはなかった。
ㅤ好きだなと思う人とは何も生まれないまま、好きだと言ってくれる相手と付き合ってみた。そうするうちに、否応なく役割がついた。
ㅤ「私」でいられる時期は終わったんだと思った。胎内に宿った生命は、そのくらい私の日常を苛んだから。私ではない、けれど私なしでは生きられない生命。それなのに、初めてこの手に抱いた朝は、ふしぎなほど心が凪いだ。
ㅤはじまりは、漢字では「始まり」としか書かないらしい。でも私は、いまの私たちを、敢えて「初まり」と呼びたい。
『終わり、また初まる、』