ㅤマンションの一階に降りて玄関ドアを開けた瞬間、私たちはハモった。
「「「さむっ!」」」
ㅤ「さむ~さむ~」と語尾を伸ばして、弟が駐車場のほうにぴょんぴょん駆けていく。ニット帽の先に付いた丸い飾りが、弟と一緒にぴょんぴょん跳ねた。
「こんなもん、ネットからテキトーにコピペすればいいって~。戻ろうよ~。お母さん風邪引いたら大変でしょ?」
ㅤ実際に星座を観察してまとめろなんて、なんとアナログな教師なのかと思う。母を付き合わせるつもりなんて無かったのだが、オリオン座について調べるうちにパソコンを占有してしまっていてバレたのだ。
ㅤわざとらしく奥歯をカタカタ鳴らして母に抗議してみたけど、
「何言ってんの、真面目にやんなきゃ。ほら、もっと見やすいとこ行くよ」
ㅤ母は意外なほどしっかりとした足取りで弟の後を歩いていく。私は文句を引っ込めてついて行った。母がとても、楽しそうだったので。
「気温も書くんだよね?ㅤえーと……二度か」
「に……」
ㅤ母の発した数字のあまりの低さに私は絶句する。どうりで寒いわけだ。
「ほんと大丈夫?ㅤ体調とか」
「そんなことよりメモ取んなさいよ」
「……あとで」
ㅤ紙とペンは持ってきたけど、ポケットから手を出すのがもはや嫌すぎる。
「あっ!ㅤあった!ㅤみっつならんだ星!」
ㅤ弟が指差す。教科書通りの三つ星に、周りを囲む四つの星。「オリオン座ー!」と嬉しげに叫ぶ弟に、母と私は「「しーっ!」」とハモる。
ㅤこうなったらさっさと見つけて終わらせてしまおう。
「えーっと、赤いのがペテルギウスで、青白いのが、リゲル。で、三つ星の線を、南東に伸ばして……あ、シリウスいた」
ㅤ指示された通りに頭の中で星を繋いでいると、母がしみじみと呟いた。
「こんなに星が見えたんだねえ。ちっとも気づかなかった」
ㅤ途端に、私の目に星々がぐわんと飛び込んでくる。
「わっ、ほんとだ……!」
「え、いま気づいたの?ㅤずっと見てたじゃない」
「いや、星ってさ、じっと見てると闇に溶けてく感じしない?」
「ああ……そうかもねぇ」
ㅤそう言えば先生が言っていた。オリオン座でいちばん明るいペテルギウスは六四〇光年離れてるから、いま見てる光は六四〇年前のものなんだって。
ㅤそう説明すると、母は白い息を吐きながら「あんたからそんな話聞けるなんて、なんだかロマンチックね」と笑った。
「あんたと渉が、私の星みたいなもんだから」
ㅤ母がそう言ったとき、私は何の脈絡もなく、大人になって母を思い出すのはたぶんこの顔なんじゃないかと思っていた。
#050
『星』
ㅤ夕方。台所の流しを掃除しました。シンク周りの水気を拭いて、無心にステンレスを磨きました。すっかりきれいになった後、冷たい水を流しました。お湯より水のほうがカビになりにくいと聞いたので、指先がピリピリしたけど我慢しました。見えなかった汚れが排水溝の奥から逆流したのか、少しだけ浮いてきました。水を当てれば当てるほど、ヘドロのような塊は細かに千切れ、シンクをくるりと回るだけ。水の容易に届かない隅にしばらく留まって、なかなか流れ去ってはくれませんでした。
ㅤそんなふうにこびりついたものが私の心のなかにもあるのかもしれません。未練。後悔。或いは愛情の成れの果て。激しく捻れ淀む何かが。
ㅤ願いが1つ叶うならば、どうか誰の目にも触れぬまま。どこへなりと流れてゆきますように。
『願いが1つ叶うならば』
そんなに悪いことを私はしたのだろうか?
あの時あなたは何度も繰り返してた。
『私の事、やっとわかってくれたね』と。
あなたをわかるなんてこと、
果たしてできるんだろうか。
そう思いながら私は曖昧に頷いていた。
あなたのそばにいたかったから。
でも結局は『何もわかってない』と言われてそれきり。
嗚呼。
いったい何と言えば、
あの時のあなたに正解だったのか。
私があなたを的確に、
あの時『わかる』べきだったのか。
考えても考えても独り
答えは永遠にあなたのなかにある。
嗚呼……。
『嗚呼』
ㅤ秘密って、そそられるよね。誰にも知られないことってさ、やっぱり特別って気がする。秘密にしたいだなんて、特に思ってないとしても。だからこれは、きっとそのひとつ。
「ねえ……あんま、みないで……」
ㅤあなたの瞳が潤んで揺れる。握った手に力が籠る。
ㅤ繋いだ指をそっと撫でると、本人すらも知らないその場所に僕は優しく唇を落とした。
『秘密の場所』
ㅤ洗濯物を干しながら。近所を散歩しながら。きみはすぐに歌いだした。歌詞がわからなくなると、いつもラララで誤魔化しはじめる。下手くそな鼻歌。
「ほとんどラララじゃないか」と僕が笑っても、「これはそういう曲なの」ときみは澄まして歌いつづけた。
ㅤ今日いつものカフェが休みでたまたま違う店に入ったら、ラララばかりで歌う曲が流れてて。検索なんかしなくても、タイトルがすぐ分かったよ。
ㅤさよならラララ。
『ラララ』