未知亜

Open App
3/6/2025, 3:22:42 PM

ㅤ冬の匂いが好きだ。
ㅤなぜその話題になったのかまるで覚えてないけど、「なにそれ」とキョトンとしたきみの顔はよく覚えてる。
「ほかの季節ならわかるけどさ」
ㅤ冬に匂いなんてある?
ㅤあるよ、とわたしは笑う。
「なんていうか、真新しい紙みたいな匂いじゃない?」
「紙って、ペーパーの?」
「そう。ペーパーの」
ㅤふうん、と言ってきみは黙る。『真新しい紙みたいな冬』を感じてみようと試みてる。こういうところが好きだなと、わたしはまた思う。
「あー、やっぱわかんない、だって暑すぎるんだもん」
ㅤ七秒くらいでギブアップ。予想したより長かった。
「春は花とかさ。夏はほら、なんかむわっとする匂いとか?ㅤすぐ浮かぶけど。この状況で冬を召喚すんのは無理だわ」
ㅤマジで暑すぎ!
ㅤ並んで座ったバス停のベンチで、きみはシャツの襟をパタパタさせて、控えめに夏へ抗議する。
「秋の匂いは?ㅤどうなの?」
ㅤわたしが訊くと、きみはベンチの背もたれに頭を預けて空を向く。背中がベタつくのか、浅く座って首だけをもたせかける。きみの前髪を揺らした微かな風が、わたしの髪と心を揺らす。
「うーん……金木犀?」
「そのままだなあ」
「えー、秋の始まりといえばデフォでしょ」
ㅤそれか焼き芋かな。また買いに行こうよ、あのオマケしてくれるとこ。

ㅤ最後には大抵食べ物になって終わるきみの話。あの会話は確かに夏だった。なのになぜか冬にだけ、このやり取りを思い出すのだ。
ㅤ風が運ぶ、新しい紙の匂いと懐かしいきみ。

『風が運ぶもの』

3/5/2025, 3:20:44 PM

ㅤ大人になれよとあなたは言う。もっとまわりに合わせろよって。
ㅤ次第に陰ってゆく部屋で「もう帰りましょう」と鐘が鳴る。とっくにおうちに帰ってるくせに、どこかに帰らなきゃと思ってざわつく。
ㅤ手放すまでは終わらないのに、まわりが先に私を決める。これでいい仕方ないなんて、ややこしい理屈は苦手で。
ㅤ私はどこにも動けない。行きたいところは明確なのに、たどり着き方がわからないの。

ㅤあなたはいつから大人だった?


『question』

3/4/2025, 1:30:58 PM


やや冬の残る冷たさのなか、はらはらと
くうを流れるピンクのあわい、音もなく
そっと降り積む、絵画の様なトンネルを
くぐり抜ければいつの間に遠ざかるあなた。

果たせないこと
ㅤわかっていたよ。


『約束』

3/3/2025, 3:30:19 PM

ㅤ並んで歩いていたら、ひらり。空から白い欠片が落ちてきた。あ、と思う間もなく、今度はオレンジと赤がひらりひらり。
「あ、あそこからだね」
ㅤ隣から指されて見れば、ウエディングドレスとタキシード姿の二人が照れくさそうな笑みを浮かべている。周囲の人が手にした籠から撒く花びらが、風に煽られて飛んできたのだ。
「いいね。幸せのお裾分け」
ㅤ私は地面の花びらを拾い、わざと明るく笑ってみせた。あのカップルは、いまの私たちには眩しすぎる。
ㅤ彼女は何も言わずに私の手を取って、花びらごとギュッと握り締めた。
「お裾分けしてもらわなくても——」
ㅤ少し冷たい手が、私を彼女の胸の辺りに導く。
「ちゃんとここにあるから」
「うん」
ㅤ私の手から花びらがするりと落ちて床に戻る。ひらりと花の舞う道を、私たちはまた歩きだす。


『ひらり』

3/2/2025, 1:28:34 PM

ㅤデイルームを通りかかったら、夢野さんは息子さんと楽しげに談笑していた。
ㅤこのところ落ち込んでいたみたいだから、元気そうな顔が見られてこちらの表情もゆるむ。ご家族の存在って、やっぱり偉大だな。
ㅤなんて考えていたら目が合った。夢野さんが手招きする。
「そろそろお部屋に戻りますか?」
ㅤまだふらつきがあるのかもしれない。車椅子が必要ならスタッフさんに断って取ってこようかと思ったら、夢野さんは笑って首を振る。
「良ければ一緒にお話しましょうよ。あのね、とても面白いのよ、こちらの……」
ㅤ夢野さんは、向かいに座る息子さんをにこやかに見つめた。私の正面に座っていた息子さんの顔が、心の奥に逆さまに焼き付く——いまも。
「あなた、誰かしら?」
ㅤ深い川の流れる音がした。



『誰かしら?』

Next