未知亜

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3/1/2025, 2:24:32 PM


「ってことは、今月なんだ?ㅤ誕生日」
「うん」
ㅤちょうど運ばれてきたビールグラスを取ると、法子は「じゃ、おめでと~!」と向かいからロックグラスを打ち合わせてきた。ガラスのぶつかる軽い音と、氷の踊るからんという響きが心地いい。
「ありがと。まだもう少し先だけどね」
「芽衣ってあんま自分のこと話さないから。知らなかったよ~。三月生まれかあ、いい時期だね。花粉さえなきゃ」
「そうでもないよ」
ㅤ例年春休みの時期で、友達に覚えてもらえたためしがなかった。事実、同期入社でいちばん仲のいい法子でさえ、一年後のいまごろ知ったのだし。まあ、確かに自分から言いまわるつもりはなかったんだけど。
「だってほら、芽吹きのとき、っていうかさ。なんか響きがいいじゃない。三月生まれって」
ㅤ酔っ払いの理屈だなと可笑しくなる。まだ一杯目なのに。
「また。テキトーに言ってるでしょ?」
「そんなことないって!ㅤ同期の誰よりも若くして社会に出れてるわけだし」
「それは、まあ」
「伸びしろがいちばんある!ㅤと四月生まれの私は思うはわけよ」
ㅤ同じ春生まれでも、こうも違うんだもんな~と法子がグラスを傾ける。琥珀色の梅酒が、とろりと唇の先へ消えていく。
「だから芽衣、芽吹け!」
「そういわれてもねえ」
ㅤ私に芽吹くときなんて、もう来ないっていうか。法子のほうが万年芽吹いてるよ。見てて気持ちいいくらいに。
ㅤああ、まだダメだ。ちょっとしたことですぐに囚われそうになってしまう。あなたが去ったこの季節に、芽吹くことなんて出来そうにないから。
「かれにし枝の、春を知らねば……か」
「ん?ㅤなんか言った?」
「楽しみにしてるね、って言ったの。誕生日プレゼント!」
「おお、任せといてよ!ㅤオフィスのお菓子、好きなのご馳走してあげる!」
「もう、それって百円のやつでしょ!」
ㅤ超高級でしょ!ㅤと笑う法子が「おかわりしよっと。芽衣は何飲む?ㅤウーロン茶?」と訊いてくれる。
「私も梅酒にするよ」
「おお、いいね。すみませーん。梅酒ロック二つくださーい!」
ㅤわざと巻舌気味に発音して爆笑する法子の明るさに救われる一方、どうしようもない寂しさが渦を巻く。
ㅤただひとり、ひっそりとこの思い出を芽吹かせて。
ㅤ夏を待たずにいっそかれようか。


『芽吹きのとき』

2/28/2025, 4:53:17 PM

ㅤ待ち合わせは十一時。柔らかな冬陽の差すコーヒーショップに、きみは先に待っていた。窓越しに手を振ったけど、きみは気づかず。一点を見つめるように動かない横顔に、窓を叩く手をそっと引っ込めたあの日。
ㅤお店の中に入ったら、きみはすぐこちらに気づいた。待たせたことを詫びる言葉にも笑顔で応えて。
ㅤあの日を想うとき、いまも心が温かくなる。数日後にはあんなに酷い言葉をぶつけてくるきみだったのに。
ㅤ既に違う場所を見ていたきみの、きりりとした、それでいて温もりさえ感じるような、あの横顔が忘れられない。


『あの日の温もり』

2/27/2025, 11:46:38 AM

ㅤ勧められたハンバーガーもポテトも、私はすぐに食べてしまった。冷蔵庫を勝手に開けて、ボトルウォーターを手にソファに戻る。やっと二人きりになれたのに、私たちまだキスもしてない。
ㅤ狭い部屋にキーボードを叩く音が響く。丸まった背中。パソコンを見つめる横顔。
ㅤまだ終わんない?
ㅤ今やる必要ある?
ㅤ何十回も出かかった言葉を私はまたグッとこらえた。そんなこと言っても無駄だって、この数日でとっくに学習している。
ㅤ顕微鏡でしか見えないミクロの細菌の記録なんかより、もっと観察するべきことがほかにあるんじゃないのかなぁ。
ㅤリターンキーを押した指が動きを止めた。ふー、っと息をついたところを見計らって私は呟く。
「あー、どーしても計算合わない……なんで?」
ㅤわざとらしく広げたノートを見つめて、出来るだけ情けなく聞こえるように語尾を震わせる。
「どしたの?ㅤなんの計算?」
ㅤやっとこっちを見てくれたあなたを、チョイチョイと手招きする。
ㅤ隣に座った膝に触れたら、ごくりと唾を飲む音がした。私の不満が一息に消えていく。
ㅤ白衣の腕をそっと掴んで自分の腰に添わせると、泳ぐあなたの瞳を下からまっすぐ覗き込んだ。
ㅤ顕微鏡の向こうの生物を「可愛い!」だの「cute!」だのと、あなたはよく褒めるけど。やっぱり私の方がずっとずっと可愛いでしょ?
ㅤ覚悟してよね。cuteには、ずる賢いって意味もあるみたいなんだから!


『cute!』『記録』

2/26/2025, 9:47:46 AM

ㅤだから、その悩みには名前があるってことなんですよ。
ㅤその一言が、私の世界に一筋の光をくれました。
ㅤ私だけの個人的な悩みではなかったということを、それまで誰も教えてはくれなかった。
ㅤ自分のことというより、仲間を作ってみんなで励まし合ったり相談したり、時には泣きながら悩んでいいんだってこと。
ㅤゲームでパーティを組むような、心強い気持ちになれたんです。
ㅤ望んでこうなったわけでも、過ぎたことと忘れてしまえるわけでもないけれど、この世はまだまだ知らないことばかりだから。未来の有り様は、きっと変えられます。
ㅤ今までをサバイブして今日ここに来てくださった皆さんに、私は敢えて軽い言葉で伝えたいのです。
ㅤさぁ冒険だ、と。



『さぁ冒険だ』

2/25/2025, 4:51:29 AM

誰かの後についていれば、間違いないと思っていた。通り過ぎるのをただ待てばいい。心を無にしてひたすら待とう。そうすれば、傷つかない。

「ほんとは嫌なんでしょ?」
ㅤ見上げると、私を背にして立つあなた。スカートのプリーツがひらりと舞う。
「……なんで?ㅤくだらないんじゃ、なかったの?」
ㅤ数日前に言われた言葉をボソボソ呟くことしか、私には出来なかった。だって、こんなの、信じられない。あなたが私を、庇ってくれてる。
「何もしようとしないあんたは、確かにくだらないよ。でも——」
ㅤ今はそれより、くだらないものがある。

ㅤ私はずっと雑草みたいなものだと思ってた。どんな花もつけずに枯れていく。それを不幸とも嫌だとも、考えたことすらない。
ㅤすっと伸びる白いふくらはぎ。葉脈のように透ける血管の青に、私はしばし見とれてしまう。
ㅤ雑草の目の前に舞い降りた、一輪の花。

『一輪の花』

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