ㅤ勧められたハンバーガーもポテトも、私はすぐに食べてしまった。冷蔵庫を勝手に開けて、ボトルウォーターを手にソファに戻る。やっと二人きりになれたのに、私たちまだキスもしてない。
ㅤ狭い部屋にキーボードを叩く音が響く。丸まった背中。パソコンを見つめる横顔。
ㅤまだ終わんない?
ㅤ今やる必要ある?
ㅤ何十回も出かかった言葉を私はまたグッとこらえた。そんなこと言っても無駄だって、この数日でとっくに学習している。
ㅤ顕微鏡でしか見えないミクロの細菌の記録なんかより、もっと観察するべきことがほかにあるんじゃないのかなぁ。
ㅤリターンキーを押した指が動きを止めた。ふー、っと息をついたところを見計らって私は呟く。
「あー、どーしても計算合わない……なんで?」
ㅤわざとらしく広げたノートを見つめて、出来るだけ情けなく聞こえるように語尾を震わせる。
「どしたの?ㅤなんの計算?」
ㅤやっとこっちを見てくれたあなたを、チョイチョイと手招きする。
ㅤ隣に座った膝に触れたら、ごくりと唾を飲む音がした。私の不満が一息に消えていく。
ㅤ白衣の腕をそっと掴んで自分の腰に添わせると、泳ぐあなたの瞳を下からまっすぐ覗き込んだ。
ㅤ顕微鏡の向こうの生物を「可愛い!」だの「cute!」だのと、あなたはよく褒めるけど。やっぱり私の方がずっとずっと可愛いでしょ?
ㅤ覚悟してよね。cuteには、ずる賢いって意味もあるみたいなんだから!
『cute!』『記録』
ㅤだから、その悩みには名前があるってことなんですよ。
ㅤその一言が、私の世界に一筋の光をくれました。
ㅤ私だけの個人的な悩みではなかったということを、それまで誰も教えてはくれなかった。
ㅤ自分のことというより、仲間を作ってみんなで励まし合ったり相談したり、時には泣きながら悩んでいいんだってこと。
ㅤゲームでパーティを組むような、心強い気持ちになれたんです。
ㅤ望んでこうなったわけでも、過ぎたことと忘れてしまえるわけでもないけれど、この世はまだまだ知らないことばかりだから。未来の有り様は、きっと変えられます。
ㅤ今までをサバイブして今日ここに来てくださった皆さんに、私は敢えて軽い言葉で伝えたいのです。
ㅤさぁ冒険だ、と。
『さぁ冒険だ』
誰かの後についていれば、間違いないと思っていた。通り過ぎるのをただ待てばいい。心を無にしてひたすら待とう。そうすれば、傷つかない。
「ほんとは嫌なんでしょ?」
ㅤ見上げると、私を背にして立つあなた。スカートのプリーツがひらりと舞う。
「……なんで?ㅤくだらないんじゃ、なかったの?」
ㅤ数日前に言われた言葉をボソボソ呟くことしか、私には出来なかった。だって、こんなの、信じられない。あなたが私を、庇ってくれてる。
「何もしようとしないあんたは、確かにくだらないよ。でも——」
ㅤ今はそれより、くだらないものがある。
ㅤ私はずっと雑草みたいなものだと思ってた。どんな花もつけずに枯れていく。それを不幸とも嫌だとも、考えたことすらない。
ㅤすっと伸びる白いふくらはぎ。葉脈のように透ける血管の青に、私はしばし見とれてしまう。
ㅤ雑草の目の前に舞い降りた、一輪の花。
『一輪の花』
ㅤそれはあなたの声。
ㅤ独特の響きが私を震わせ、水の中のように距離がわからなくなる。ありふれた名前さえ異国のメロディに変えてしまう。
ㅤそれはあなたの瞳。
ㅤ決して無理強いはせず、けれど断るなど思いもしていない視線が、私をやんわり動けなくする。隅々まで痺れさせてしまう。
ㅤそれはあなたの手。
ㅤ青白い肌の上で指先が踊り、朱に染め変えてはうずくまる。開かれた私の心は、たやすく追い抜かれてしまう。
ㅤ風のない夜は、あなただけの私。
ㅤ甘く苦しい魔法にかかりにくる私。
『魔法』
ㅤ下を向いて歩いていたせいで、知らない人と肩がぶつかる。謝ろうとしたら、向こうが先に「ごめんなさい」と言った。
ㅤ明るさの混ざるその語尾に顔を上げる。周りを見れば、幾人かの人が空を指し、笑顔でカメラを掲げていた。見事な七色の橋。
ㅤ庭の朝顔に水を撒く後ろ姿。振り向いた君が、おそようと笑って手招きする。
『ほら、虹』
ㅤ縁側に腰掛けると、ピンクや紫の花弁にキラキラと光るプリズム。
『この世には、綺麗なものがたくさんあるんだねえ』
ㅤ落ち込んでる僕の背中を、いつもそっと押してくれる君の笑顔が大好きだった。
ㅤ果てしなく遠い空に、ほらと笑う君が重なる。黒いネクタイを解いて、僕は天のアーチを仰ぐ。
『君と見た虹』