ㅤ廊下に呼ばれたあなたを目で追う。
ㅤドアの向こうで短い歓声があがる。
ㅤ戻ってきたあなたはパステルカラーの小さな包みを幾つも抱えていた。満更でもない顔をして。
ㅤ後ろ手に持っていた紺色の包みを、私は鞄の奥へ押しやる。
「ごめん、用事思い出した。やっぱ先帰るね。……バイバイ」
『バイバイ』
ㅤ大人になったら、悩んだりしなくなると思ってた。いろんなことの仕組みがわかって、世界は広がる一方で。落ち込むことはあるだろうけど、なんたって大人なんだから。知恵もツテもあるはずだ。もちろんお金もたくさん。
ㅤ十四の頃、理由もなくそう信じていた。通学の道すがらすれ違う大人は誰しも、迷いなく格好良く駅を目指していた。人生が長い旅なら、彼らはきっと居るべき場所にもう辿り着いているんだと思った。
ㅤだけどそんなこと、ありえない。
ㅤ自宅の郵便受けを開けたら、チラシと請求書がドサドサ落ちてくる。ため息と共に数枚拾い上げたところで、手の中でスマホが鳴り出した。妹だ。
「もしもしっ……わっ!」
『え、なに?ㅤ大丈夫~?』
ㅤ応答した瞬間に指をすり抜けたチラシが、先程よりも盛大に床に散らばる。
「ありえない……」
ㅤ今どき会社に泊まり込みとか、本当に有り得ない。こんなに郵便が溜まるまで。
『あ、日付変わったよ。おめでと~!』
「ありがと」
ㅤ大台に載ったねえ、と言われ、全然めでたくないよ、と返す。妹は毎年このタイミングでお祝いの電話をくれるのだ。
「全然実感無いし。十四あたりで止まってる感じ、精神的には」
『中二かぁ。でも身体がね~、フォーティーンじゃなくてフォーティなんだよね、悲しいことに』
ㅤ脇に紙束を挟んで、妹の言葉に吹き出しながらドアの鍵を閉めた。出社する前と何ひとつ変わらない部屋の乱雑さになぜかホッとする。
ㅤひとつ歳を取っても、何も変わらない。思ってた以上に長旅の途中みたいだ。
『旅の途中』
ㅤビール追加の声。皿を重ねる音。店内のざわめきが、向かい合う沈黙の間を過ぎていく。武器のつもりで袖を通した新品のワンピースは、タバコと焼き鳥の匂いに呆気なく敗けた。
ㅤ確かに息づいた恋を「潮時」と冷たく評する君を、否定出来るだけの勇気が私にはない。花模様の上で震える拳を握り締める、
ㅤ目の前に座るのは、私のまだ知らない君。もっとたくさん、知りたかった君。
『まだ知らない君』
ㅤ正午。
ㅤそこには先客がいた。でっぷり太った三毛猫。
ㅤ大抵の人は、講義が終わると連れ立って食堂へ行く。けれど私は、講堂から少し離れた、木の陰のベンチがお気に入りだった。誰とも顔を合わさなければ、誰とも話さなくて済む。
ㅤ猫は目を閉じていた。顔の真ん中に二つ、すうっと線が引かれているみたいだ。眠っているのか休憩しているだけなのか、私にはわからない。
ㅤ風そよぐベンチのど真ん中に、置物のように鎮座する黒と茶と白の猫餅。どうしようかと逡巡していると、黒茶の耳がピクピクと動き、猫がぱちりと瞳を開いた。私の方をじとりと見る。
ㅤこの時間の所有権を主張したいけど、ナワバリの闖入者は私だったのかも知れない。貫禄ある彼女とやり合う気にはなれなかった。次の講義に遅れても嫌だし。
ㅤ他の場所を探そうと歩き出しかけた時、
「にゃあ」
ㅤ短く鳴いた猫が身体を起こした。数歩遠ざかり、ベンチの端でまたしゃがみ込む。もしかして、場所を空けてくれたのかな……?
「ありがとう」
ㅤお礼を言って日陰に入り猫と並んで腰掛けると、お弁当箱を取り出す。
ㅤ猫はじーっと、私の手元を見ていた。
『日陰』
「のりちゃん。入るよ?」
ㅤコココンというノックの音がして、おばあちゃんがドアを開けた。
「あらま。真っ暗」
ㅤおばあちゃんは、勝手に電気のスイッチを点ける。
「食べないの?ㅤごはん」
「……おなかすいてない」
ㅤベッドに潜ったままで私は言った。
「風邪じゃないのかい?ㅤ熱は?ㅤ喉は大丈夫?」
ㅤ心配そうな声が近づく。
「そういうんじゃないから……」
「そっか、良かった」
「ちっとも良くないよ」
ㅤ布団を跳ね除けて思わず抗議した。私の視界いっぱいに、色とりどりの羽根が揺れる。ぽかんとしていたら、
「可愛いでしょ?ㅤ今日の帽子」
ㅤおばあちゃんが、帽子に付いた羽根をわざとユラユラさせてポーズを取った。
「可愛いっていうか……」
「派手?ㅤ似合わない?」
「派手なのはいつもだもん。……似合ってるよ」
「ありがと」
ㅤおばあちゃんはたくさん帽子を持っている。変わったデザインのものが多いのに、不思議なほどおしゃれに使いこなしていた。
ㅤ物心ついた頃からそうだったから、私の頭の中には、もはや『帽子をかぶってる生き物』として刷り込まれているのかもしれない。それくらい、おばあちゃんと帽子の組み合わせは私にとっては自然だった。
「ね、あたしがどうして帽子かぶるようになったのか、のりちゃんに話したことあったっけ?」
「理由なんかあったんだ」
「あるよう。物事にはなんでも理由があるの」
ㅤおばあちゃんが笑う。
「学生の時にね、哲学の授業で帽子について習ったんだ」
「帽子?ㅤそんなこと習うの?」
「習ったんだよねえ、これが。哲学ってわかる?ㅤ生きてく上で、これってなんでだろうって疑問に思ったことを、つきつめて考えてみるってことなんだけど」
「うん」
「哲学的にはね、帽子は自我。つまり自分の思う自分なんだって。その考え方面白いなーって思ったんだ。周りからどう見られてるかは置いといて。今日の私はこうなのよって、周りに見せていくのもあれかなあって」
ㅤだからさ、のりちゃんも心で帽子かぶってみればいいかもよ。今日はやる気を出さないダラダラ帽子。明日はちょっとだけ一生懸命やるハキハキ帽子。時にはご褒美キラキラ虹色帽子~!
ㅤ私のほっぺに、おばあちゃんはふざけて頭をぐりぐり押し付ける。帽子についた羽根がくすぐったい。
「いろいろかぶって試してみないと、何が似合うかなんてわかんないからね。でも今はまず」
ㅤ私に手を差し出して、おばあちゃんはにっこり笑う。
「ごはんモグモグ帽子かぶって」
『帽子かぶって』