目が覚めた。
顔を横に倒すと見える、デスクの上に放置しておいたテキストの山は、また少し埃を被っている。八月三十一日まではあと一週間ほどで、そろそろやらなければと自覚しながらも目を背け続けていた。今日もまたそれの繰り返しから抜け出せず、朝食を摂り、スマートフォンでいくつかのミニゲームを行ったり来たりして、昼食と夕食を食べて、風呂に入って寝るだけだろう。
壁に立てかけられたアナログ時計では、つい先程二十一時を回った。既に夕食を終え風呂も済ませ、髪も完全に乾き今すぐにでも床に就ける状態にある。デスクの上の光景はあまり変わらず、また少量の埃が降っただけのように見えた。明日こそはデスクの前に座れますように。そう願って目を閉じた。
――終わらない物語
『廃れた庭より』
久しぶりにこの鉄を触った率直な感想は、細い、であった。あの頃は十五分という時間で充分に校庭遊びを満足できたけれど、今ではそんなことができる自信はない。デスクワークばかりの出不精では頂上まで登るのが精一杯だろう。
そもそも、この鉄の頂上になにがあるというのか。この高さでは達成感なんてものはないし、頂上に限定しなくとも鬼ごっこをする相手もない。筋トレの道具にはなりうるかもしれないが、私にはそんな技術も知識もない。
それでも、一応登ってみようと思った。たった三メートル上からの廃れた景色に、私には想像のつかないなにかがあるかもしれないから。あるいは、思い出せるかもしれないから。なにか大事なものが。
――ジャングルジム
「ミヤコ、おはよう」
「……あら、どなた?」
これで300回目。一字一句同じ会話だ。
「悟だよ、サトル。君の夫さ」
「面白い方なのね。私は貴方の事を知らないわ。夫婦であるわけがないもの」
銀、というには艶がない髪と、シワの多い朗らかな表情。若い頃、マドンナだのアイドルだのと囃し立てられた顔面は、50年経った今でも美しいままだ。
「ここは病院かしら? ああ、分かったわ。貴方、私を車で撥ねたんでしょう」
「違うよ。体のどこかが痛むかい?」
「あら……そうね、確かに。どこも痛くはないわ」
彼女は怪我や病気をしてこんな無機質な部屋に閉じ込められているわけではない。もうすぐ寿命が来る、というそれだけのことだ。
「ならどうして? そもそも、貴方はどなたなの?」
「夫だよ。さっき言ったじゃないか」
「……まあ、そういうことでいいわ」
あれ、違う。棚の掃除をする手が止まる。うっかり花瓶を倒してしまいそうになって、それをどうにか阻止した。
「あら、どうかしたの? サトルさん」
「いや……、いいや、なんでもないさ。僕も歳かなあ」
慌てて荷物を整理した。今すぐにここから離れてしまいたかった。だって、都子がそんなことを言うはずがないのに。
「サトルさん?」
「も、もういいんだ。すまない。何かあったらそのボタンを押すんだ。また明日来るよ」
ナースコールの説明を一瞬で済ませ、ボロボロのリュックを背負って病室を出た。リュックにぶら下がるキーホルダーがうるさい。なのに心地良かった。
僕は今日、初めてこの病室で彼女の夫としてそこにいた。初めて、彼女の口から僕の名前を聞いた。やっと覚えてくれたんだ。
いや、思い出してくれたんだ。
――忘れられない、いつまでも。
「うーん、そしたら、そうだなあ」
一呼吸置いて貴女は口を開いた。
あなたに――。
貴女は僕の目を見ると目に水を溜めた。今にも溢れだしてしまいそうで、しかし僕にはそれを拭う権利はなかった。
「晴香」
ガラガラと病室のドアが開いて、長身の男がズカズカと入ってきた。僕の兄だ。そして、晴香さんの彼氏でもある。らしい。
「亮くん」
「また晴輝に世話させたのかよ。もう頼るなって言ったろ」
「だって、独りは寂しいのよ」
僕は晴香さんに頼まれてここへ来ているわけではなかった。ただ僕が来たいから来ているのに、なんて優しい人だろうと思った。
やっぱり、良い人ほど先にいなくなってしまうというのは本当なのだ。
「もういいから、お前は帰れよ」
「……分かった。じゃあ」
「晴輝くん」
晴香さんが僕を呼ぶ。足を止めて振り返ると、先に不機嫌そうな兄の顔が目に入った。
「今日もありがとうね」
にこりと目を細め口角を上げる。それに釣られてしまいそうになるのを堪え、隠れて拳を握りながら返答した。
晴香さんは、兄とふたりのときもそうやって笑えるのだろうか。
「さようなら、晴香さん」
僕が背を向け、病室の外へ出てドアを閉めようとした時には、彼女の姿は兄の大きな背中に隠れて見えなかった。兄の顔がベッドの高さと同じくらいまで下げられていたのが心底気持ち悪かった。
――明日世界が終わるなら
聞こえてきたのは風鈴の音。チリンチリンと鳴っているのは、風情のある縁側ではなく錆びた鉄のベランダ。質素な部屋で唯一彩りを持っていて、それをくれたのも、私の友人の中で唯一華やかな人だった。
白い掛け布団を捲り、白い床へ足を着ける。いつものルーティンとは外れベランダの方へ向かうと、その赤色は背景の緑に映えてとても綺麗だった。まるであの人のようだった。
――耳を澄ますと