『廃れた庭より』
久しぶりにこの鉄を触った率直な感想は、細い、であった。あの頃は十五分という時間で充分に校庭遊びを満足できたけれど、今ではそんなことができる自信はない。デスクワークばかりの出不精では頂上まで登るのが精一杯だろう。
そもそも、この鉄の頂上になにがあるというのか。この高さでは達成感なんてものはないし、頂上に限定しなくとも鬼ごっこをする相手もない。筋トレの道具にはなりうるかもしれないが、私にはそんな技術も知識もない。
それでも、一応登ってみようと思った。たった三メートル上からの廃れた景色に、私には想像のつかないなにかがあるかもしれないから。あるいは、思い出せるかもしれないから。なにか大事なものが。
――ジャングルジム
「ミヤコ、おはよう」
「……あら、どなた?」
これで300回目。一字一句同じ会話だ。
「悟だよ、サトル。君の夫さ」
「面白い方なのね。私は貴方の事を知らないわ。夫婦であるわけがないもの」
銀、というには艶がない髪と、シワの多い朗らかな表情。若い頃、マドンナだのアイドルだのと囃し立てられた顔面は、50年経った今でも美しいままだ。
「ここは病院かしら? ああ、分かったわ。貴方、私を車で撥ねたんでしょう」
「違うよ。体のどこかが痛むかい?」
「あら……そうね、確かに。どこも痛くはないわ」
彼女は怪我や病気をしてこんな無機質な部屋に閉じ込められているわけではない。もうすぐ寿命が来る、というそれだけのことだ。
「ならどうして? そもそも、貴方はどなたなの?」
「夫だよ。さっき言ったじゃないか」
「……まあ、そういうことでいいわ」
あれ、違う。棚の掃除をする手が止まる。うっかり花瓶を倒してしまいそうになって、それをどうにか阻止した。
「あら、どうかしたの? サトルさん」
「いや……、いいや、なんでもないさ。僕も歳かなあ」
慌てて荷物を整理した。今すぐにここから離れてしまいたかった。だって、都子がそんなことを言うはずがないのに。
「サトルさん?」
「も、もういいんだ。すまない。何かあったらそのボタンを押すんだ。また明日来るよ」
ナースコールの説明を一瞬で済ませ、ボロボロのリュックを背負って病室を出た。リュックにぶら下がるキーホルダーがうるさい。なのに心地良かった。
僕は今日、初めてこの病室で彼女の夫としてそこにいた。初めて、彼女の口から僕の名前を聞いた。やっと覚えてくれたんだ。
いや、思い出してくれたんだ。
――忘れられない、いつまでも。
「うーん、そしたら、そうだなあ」
一呼吸置いて貴女は口を開いた。
あなたに――。
貴女は僕の目を見ると目に水を溜めた。今にも溢れだしてしまいそうで、しかし僕にはそれを拭う権利はなかった。
「晴香」
ガラガラと病室のドアが開いて、長身の男がズカズカと入ってきた。僕の兄だ。そして、晴香さんの彼氏でもある。らしい。
「亮くん」
「また晴輝に世話させたのかよ。もう頼るなって言ったろ」
「だって、独りは寂しいのよ」
僕は晴香さんに頼まれてここへ来ているわけではなかった。ただ僕が来たいから来ているのに、なんて優しい人だろうと思った。
やっぱり、良い人ほど先にいなくなってしまうというのは本当なのだ。
「もういいから、お前は帰れよ」
「……分かった。じゃあ」
「晴輝くん」
晴香さんが僕を呼ぶ。足を止めて振り返ると、先に不機嫌そうな兄の顔が目に入った。
「今日もありがとうね」
にこりと目を細め口角を上げる。それに釣られてしまいそうになるのを堪え、隠れて拳を握りながら返答した。
晴香さんは、兄とふたりのときもそうやって笑えるのだろうか。
「さようなら、晴香さん」
僕が背を向け、病室の外へ出てドアを閉めようとした時には、彼女の姿は兄の大きな背中に隠れて見えなかった。兄の顔がベッドの高さと同じくらいまで下げられていたのが心底気持ち悪かった。
――明日世界が終わるなら
聞こえてきたのは風鈴の音。チリンチリンと鳴っているのは、風情のある縁側ではなく錆びた鉄のベランダ。質素な部屋で唯一彩りを持っていて、それをくれたのも、私の友人の中で唯一華やかな人だった。
白い掛け布団を捲り、白い床へ足を着ける。いつものルーティンとは外れベランダの方へ向かうと、その赤色は背景の緑に映えてとても綺麗だった。まるであの人のようだった。
――耳を澄ますと
「あ、ちょっと、コウキくん」
「うん?」
スマホの画面から視線を離さない彼に声をかける。顔は上がらないまま曖昧な相槌だけが返ってきた。
「今日ゴミ出しの日じゃなかった?」
「え? あー……ごめん、次から気をつけるよ」
我が家は日毎に家事を分担するスケジュールを組んでいる。毎月一日にカレンダーを張り替えて、共働きの私たちはちゃんと仕事量が半分になるようにしている。
今日はコウキくんがゴミ出しを担当する日で、それを彼が忘れていたという話だ。
「それだけ?」
「それだけって? あ、まずい」
未だに彼と目が合わない。ゲームの中の彼が大ダメージを食らったらしい。仲間のソフィアちゃんとかいう僧侶に回復してもらって、再び攻撃フェーズに入る。
「約束、忘れたの?」
「だからなんだよ。今ちょっと忙しい……」
同棲当初に決めたルールを忘れるとは……逆に言えば、彼がこれまでその約束を忘れるほどに家事分担をしっかりとこなしてくれたということだろうけど。少し寂しい気持ちを抱えながら、彼の勝利を待つ。
「セーフ……」
「ちょっと?」
しまった、周回だったらしい。もう次の戦闘に入ろうとする彼のスマホを取り上げて強制的に顔を上げさせる。
「あ、おい。もう始まっちゃうだろ次が」
「ホントに約束忘れちゃったの?」
「……忘れたって、返して」
少し伏せ目がちになる。本当に忘れたのか少し怪しい反応だ。何か隠しているような……実は覚えているような感じがするけど、どちらにせよ問いたださねばならない。
「何隠してるの?」
「いや、マジで……今日は勘弁して。明日やるよそれは」
「今日なんかあるの? 出かけるの?」
彼は黙って頷く。
今までそんな雰囲気はなかったけど……この状態でも出かける予定を優先させるなんて、不倫相手とのデートしか考えられない。今まで浮気や不倫については我関せずを貫こうと考えていたが、いざされたとなると少しくるものがある。
「……別にいいよ。帰ってきたら話そう?」
「いや待って、絶対誤解してるって」
「いいよいいよ。誤解っていうならそれこそ帰ってきてから聞くよ」
「……あの、マジでユカが考えてるようなことじゃないから」
なんだか彼の声を聞くのが嫌になって、話を最後まで聞かずに自室へ戻った。
今まで、信じてきたのに。
ガチャンというドアの開閉音がした。彼が帰ってきたのだろう。どんな話をされるか分かったものじゃない。寝たフリでもしていようと布団をもう一度深く被る。
「ユカー? 寝てる?」
自室のドアを二回ノックされた。布団を強く握り締めて耐える。
「……入るよ?」
無神経だな、と思いつつも抵抗はできなかった。私は寝ているのだから、仕方ない。
「ユカ……」
多分、私の狸寝入りに気づいているのだなと思った。彼はゆっくりとベッドの方へ来て、近くにあった椅子に腰かけた。彼の部屋のゲーミングチェアとは違うけど、座り心地はどうなのだろうか。
「約束のは、ちゃんと明日やるよ。今日はホントにごめん」
「……」
「これ、今日の昼受け取りにしてたんだ。それでゴミ出しのことすっかり忘れてて」
私が起きている前提で話を進める彼。今までロクなスキンシップもなくなっていたと思うけど、それでもなんとなく私のことを想ってくれているのが伝わった。
「……これ置いとくよ。起きたら見て」
「……ま、まって」
部屋を出ていこうとする彼の小指を軽く掴む。あまり彼は驚いていない様子で、私が引き留めてくることも想定内だったらしいのが少し癪に障る。
「今、見るから。あとおかえり」
「うん、ただいま。その机の上のやつだよ」
言われた通りに木目の机を見る。端っこの方に青い柔らかそうな小箱が置いてあって、それは私の好きな色だった。
「これ……指輪?」
「うん。ほら、改めてちゃんとしたやつ買うって約束したでしょ。今日で二年だし」
付き合ったのも結婚したのも、世間的に見れば若い方で、お金の余裕もあまりなかった。同棲したてで一年目はお金の扱いにも苦労したし、指輪のことなどすっかり失念していた。
約束を忘れていたのは私も同じだったのだ。というか、私の方が忘れてはいけないことを忘れていた。
「そうだ……ごめん、私」
「いいよ、いつもいっぱい頑張ってくれてるし。俺もごめん」
「うん。……付けてもらってもいい?」
「もちろん」
彼は小箱を手にとって、中身を私に見せてくれた。小さなダイヤモンドが表面に散りばめられていて可愛いデザインだ。
「手出して」
言われた通りにする。私の左手薬指から少しチープな指輪を外して、汚れひとつない綺麗なダイヤモンドの指輪を通す。サイズはピッタリで、二年前からあまり太っていないことに安堵した。
「似合ってる」
「うん……ありがとう」
彼の左手薬指にも、同じようなほんの少し質素な指輪が光っている。
「明日はどうする? 水族館行きたいって言ってなかったっけ」
「え、付き合いたてとかの話じゃないの」
「いいじゃん。行こうよ。ゴミ出しのペナルティはそれでどう?」
「まあ、いいけど」
我が家の家事分担を破ったペナルティは、相手の行きたい場所へデートに行くこと。私たちはあまり趣味が合わなくて、和食と洋食、バラードとロックなどバラバラだからこそこのペナルティにしたのに。
彼の表情は、なんだか楽しくて仕方がないようだった。
――ルール