「ミヤコ、おはよう」
「……あら、どなた?」
これで300回目。一字一句同じ会話だ。
「悟だよ、サトル。君の夫さ」
「面白い方なのね。私は貴方の事を知らないわ。夫婦であるわけがないもの」
銀、というには艶がない髪と、シワの多い朗らかな表情。若い頃、マドンナだのアイドルだのと囃し立てられた顔面は、50年経った今でも美しいままだ。
「ここは病院かしら? ああ、分かったわ。貴方、私を車で撥ねたんでしょう」
「違うよ。体のどこかが痛むかい?」
「あら……そうね、確かに。どこも痛くはないわ」
彼女は怪我や病気をしてこんな無機質な部屋に閉じ込められているわけではない。もうすぐ寿命が来る、というそれだけのことだ。
「ならどうして? そもそも、貴方はどなたなの?」
「夫だよ。さっき言ったじゃないか」
「……まあ、そういうことでいいわ」
あれ、違う。棚の掃除をする手が止まる。うっかり花瓶を倒してしまいそうになって、それをどうにか阻止した。
「あら、どうかしたの? サトルさん」
「いや……、いいや、なんでもないさ。僕も歳かなあ」
慌てて荷物を整理した。今すぐにここから離れてしまいたかった。だって、都子がそんなことを言うはずがないのに。
「サトルさん?」
「も、もういいんだ。すまない。何かあったらそのボタンを押すんだ。また明日来るよ」
ナースコールの説明を一瞬で済ませ、ボロボロのリュックを背負って病室を出た。リュックにぶら下がるキーホルダーがうるさい。なのに心地良かった。
僕は今日、初めてこの病室で彼女の夫としてそこにいた。初めて、彼女の口から僕の名前を聞いた。やっと覚えてくれたんだ。
いや、思い出してくれたんだ。
――忘れられない、いつまでも。
5/10/2024, 12:36:28 AM