『吹き抜ける風』
コンクリートジャングルとはよく言ったものだ、と林立するビルを見上げて思う。
方向音痴な私は、すぐに自分が今いる場所がどこだかわからなくなってしまう。
スマホがあるだろ、なんて言う人は方向音痴をわかっていない。
アプリで位置情報を見てもわからない、もしくは迷うのが真の方向音痴である。
それにしても。
夏場はあんなに灼熱で茹だるような暑さだったのに、季節が変わると今度は凍えるように寒くなるとは。
太陽光が遮られるだけでなく、ビルの間を通り抜ける風の冷たいこと。
近所の公園に出かけるのとはわけが違う。コートにマフラー、指先がかじかむから手袋も必要だ。カイロは、まだちょっと早いかな。
一陣の風が吹き抜けて、ぶるりと背筋が震える。
なにか温かいもの、そうだな、ラーメンでも食べて帰ろうか。
それにはまず、ここがどこかわからないと……
『記憶のランタン』
「マッチ売りの少女の話を知っているかい?」と、馴染みの古道具屋の主人は言った。
凍えた少女が、マッチの火の中に見た幻影。
暖かいストーブ、ガチョウの丸焼き、大きくてきれいなクリスマスツリー、少女を愛してくれた亡き祖母。
「あれは走馬灯だったのかもね」
ところで、と店の主人は手にしていたものを私に見せた。
真鍮製の小さなランタン。
「これは記憶を呼び起こすランタンなんだ」と笑う。
試してみるかい、と言われて戸惑う私に「大丈夫、大丈夫。死にやしないから」と、いささか強引な様子で火をつけた。
オイルの匂いの向こうに、幼い日に訪ねた祖父母の家の香りがした。
揺れる灯火の中、祖母が編んでくれた芥子色のマフラーが鮮やかに浮かび上がる。寒がりな私にそっと巻いてくれた、あのやさしい感触まで。
ふとランタンの火が弱まった。
それと同時にハッと我に返る。
「これは少々困った品でね、扱いに気をつけないと取り込まれてしまう」
そんなものを気軽に試したりしないでほしい。
そう言うと、主人はまた笑って言った。
「何を言ってるんだい、アタシに取り憑いてるヤツが」
『冬へ』
行きつけの喫茶店では、毎年この時期になると「栗のスフレパンケーキ」が期間限定メニューで登場する。
2段に重ねられたふんわりとしたスフレ生地。上にはこんもりと渦を巻いたモンブランペースト。その真ん中に艶々とした渋皮がついたままの、大きな一粒栗。
いつもはお店おまかせのブレンドコーヒーを好む私だが、この時ばかりはヘビーにならないよう、香り高く爽やかなアールグレイを頼む。
モンブランペーストは甘さ控えめ。
中に入ったバニラアイスが、一瞬口の中を引き締める。
2段重ねだと下の段は、甘味の恩恵を受け損ねるものだが、そこは添えられたメイプルシロップをたっぷりと。
――ふう。
美味しかった。余は満足じゃ。
外に出ると、歩道の落ち葉が誰もいないのにカサリと音を立てた。
もうすっかり、季節は冬へと進んでいる。
さて、美味しいものでリラックスできたし、もうちょっと頑張りますか。
『君を照らす月』
ビルの窓拭きアルバイトをしていたことがある。
ゴンドラは結構揺れて、何度か怖い思いもした。
その一方で、キレイに磨き上げたガラスがキラリと反射するさまや、窓の中の人々の様子が楽しくもあった。
短い間だけで、すぐに辞めてしまったが、好きな仕事だった。
強風が吹く日や雨などの荒天、夜間は中止になる。危険だから。
けれど、たまに夢想したものだ。
夜の高層ビル、ワイヤーで吊るされたゴンドラに乗り込む自分を。
夜の作業は街の喧騒から切り離され、窓に映る夜空はまるで宇宙船の中にいるようだろう。
見上げた先には、満月。
濃紺の夜空にくっきりと。
オレンジがかった濃い黄色。
箸で突いたらトロリと黄身が流れそうな。
そんな月の光に照らされてみたい、と。
『木漏れ日の跡』
小さなベランダには、朝のわずかな時間だけ、隣のビルの隙間から光が差し込む。
私はそこに、使い古した籐の椅子を置いていた。洗濯ものを干す時に洗濯カゴをそこに置くとちょうどいいのだ。
三年前に引っ越してきた時から、その椅子は一度も動かされていない。
ある朝、ふと気がついた。
椅子の背もたれが、他の場所――座面や脚など――と比べて明らかに色が薄いのだ。
座面は洗濯カゴが光を遮り、脚の部分はベランダの壁があって日陰を作る。
背もたれだけが、三年前と色を変えた。
わずかな木漏れ日でもこんなに焼けるものなんだなぁ。
私はそこをそっと指でなぞった。