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11/15/2025, 5:31:18 AM

『ささやかな約束』

ご近所のGさんは、いつも小さな鉢植えを大事そうに世話している。
ある日、挨拶の流れでその鉢植えについて聞いてみたところ、こんな話を教えてくれた。

その鉢植えは、​Gさんのご主人が定年退職の日にくれたものたそうだ。
ご主人は鉢植えを渡しながらGさんにこう言った。

「この花が咲く頃、ふたりでどこか旅に出よう」

​Gさんは喜んで、毎日欠かさず水をやった。しかし数ヶ月経っても花は咲かず、いまだに葉が数枚つくだけだった。
最近、ご主人はそれをとても気にしている様子だとか。

​「可愛い人でしょ」
​そう言って鉢植えを見つめるGさんは、とても幸せそうだった。

11/14/2025, 4:59:15 AM

『祈りの果て』

​あるところに、老いた修道女がいた。
彼女は寂れた礼拝堂で、今日もひとり天使像に向かって傅いていた。
彼女の祈りはいつも同じ。

「世界が平和でありますように」

五十年間、毎日欠かさず祈り続けてきたことだ。

​ある夜、祭壇の上の天使像が彼女に囁いた。

《あなたの祈りは聞き届けられた》

​彼女は驚き、窓の外を見た。街は静寂に包まれ、何の物音も喧噪もない。
翌朝外へ出てみると、人々はみな笑みを浮かべ、穏やかに佇んでいた。
誰もが、ただ穏やかに。
働く者も、話す者も、泣く者もいない。

争いの種となるものすべて、富、名声、意志、欲望、感情、そして言葉までもが、祈りによって消し去られていた。

​彼女は一度だけ大きく息をつくと、ただ佇むばかりの人々の輪に加わった。

11/12/2025, 7:12:12 AM

『ティーカップ』

むかし、英国に留学した友人が、お土産にティーカップをくれた。
あちらの蚤の市で見つけたのだとか。
白磁にスイートピーの花が描かれている、可憐で上品なものだ。それに合わせたティースプーンにも同じ柄が描かれている。

一目で気に入り、以来紅茶を飲む時はそれを使っている。

あれから長い年月が経ち、結婚とともに遠くへ行ってしまった彼女とは、疎遠になってしまった。

そろそろ、温かい飲み物が美味しい季節。
今でもティーカップは使い続けている。

11/11/2025, 4:08:57 AM

『寂しくて』

今日もまた、時計の針が日付をこえた。
シンと静まり返った部屋で、私はベッドに潜り込み、スマートフォンの画面をただスクロールする。

「……さむい」

誰にともなく呟いてみるが、壁は冷たい沈黙を返すだけだ。
メッセージアプリを開けば、グループチャットには楽しそうなスタンプや短い会話の履歴。
私が入れる隙間はない。

冷蔵庫には作り置きの惣菜。洗濯物も畳んである。部屋も、奇麗とは言えないがそこそこ片付けてある。
やるべきことはやっているはずなのに、満たされない虚しさが胸の真ん中に居座っている。
それが、冬の夜の底冷えのようにひたひたと、確かな痛みとして私を覆う。

耐えきれず、ベランダに出た。
夜風は冷たく、街の灯りがやけに澄んで瞬いている。

この街に、私と同じ思いを抱えた人は、一体どれほどいるのだろう。

ぼんやりとそう考えたとき、下の階の窓から小さな明かりが漏れているのが見えた。
誰かが、まだ起きている。
それだけのことが、ほんの少しだけうれしい。

私は冷えた両腕を何度かさすり、再び部屋に戻った。
明かりを消しても、その小さな窓の光だけが瞼の裏に焼き付いていた。

11/10/2025, 3:31:45 AM

『心の境界線』

気がつけば、誰とも触れ合うことのできない壁の中にいた。
私の周りにぐるりと引かれた線の内側。透明で、少しひんやりとしている。誰も入ってこられない。

「大丈夫?」

隣に座るあなたは、いつも心配そうに声をかけてくれる。
その声は壁の外から届くせいか、遠い昔に聞いた笛の音のようだ。
私は微笑みで応える。
自分の身を守るために。

ある日、あなたは私に小さな贈り物を差し出した。
それを受け取るとき、ほんの一瞬、その指先が私に触れた。たったそれだけの出来事。

なのにその瞬間、私を取り囲んでいた壁に、ごく僅かな、しかし確かなヒビが入ったのを感じた。

あなたの屈託のない笑顔が、雲間から差し込む陽の光のように、ヒビを通して線の内側まで届いた。

壁は崩壊しない。
まだ私は守られている。
それでも私は知った。私の小さな世界が破られることもあるのだと。

どうしよう。
あなたはそのヒビに気づいていない。
どうしようか――あなたを。

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