『透明な羽根』
古びたアパートの埃っぽいベランダに、それは落ちていた。
最初は、ただの光の反射だと思った。
西陽がコンクリートの床に鋭い斜線を描き始めたとき、微かにキラリと光ったもの。
目を凝らすと、それは紛れもなく羽根の形をしていた。
大きさは手のひらほど。完全に透明で、向こう側の景色が歪みなく透けて見える。
よく見ると、極めて細い繊維が幾何学的に組み合わされており、その輪郭だけが光を捉えて、まるで水が固まったかのようだった。
触れようとすると、指先に冷たい痺れを感じ、代わりに過去の記憶がひとつ消えた。
なんの記憶が消えたのかは思い出せない。
きっと些末なことだろう。
それが忘れ去りたいものだったのなら、ありがたいのだけれど。
『灯火を囲んで』
ダイニングの照明は、いつものように煌々と点いていた。
テーブルには完璧にデコレーションされたショートケーキ。
その真ん中には、年齢を表す数字の形の蝋燭が、淡いオレンジの炎を揺らしている。
私は椅子に座り、その炎を静かに見つめていた。
向かい側には昨日まで友人だと思っていた女。
「ありがとう! お祝いしてもらえるなんてうれしい!」
彼女の顔は喜びに輝いている。
「お願い事、した?」
素知らぬ顔でそう尋ねると、うん!と弾んだ声が返ってきた。
そう、きっとそんなもの、叶わないでしょうけど。
私は立ち上がり、キッチンから包丁を持ってくる。柄の部分が黒く、刃先は照明を鋭く反射していて――よく斬れそうだ。
「じゃあ、切るわね」
ケーキじゃない、別のものを。
『冬支度』
小さな幼木の前にしゃがみ込み、まだ華奢な幹をそっと撫でる。
私は守り人としてこの数週間、せっせと森を巡っていた。
魔女の祖母から教わった「温もりを蓄える呪文」を、どんぐりや松ぼっくり、そして森の木々に吹き込むのだ。
もうすぐ雪が降り始める。
この森の生き物にとって、冬支度はたぶん今日で終わり。
幼木に最後の呪文を唱え終えた私が立ち上がると、空から一片、また一片と大きな雪が舞い落ちてきた。
もう「温もりを蓄える呪文」は森の奥まで全部済ませた。
食料は地下貯蔵庫に蓄えたし、薬草は乾燥棚に掛けてある。窓には防寒の布も張り付けた。あとは小屋に戻って、薪を積むだけ。
冬に閉ざされた森は、静かになる。
寒さに耐えるには、暖かい暖炉と腹を満たすスープ、そして凍えない心が必要だ。
もちろん、大量の本も。
さあ、いよいよ長い季節の始まりだ。
『キンモクセイ』
街に金木犀の香りが漂うのを、実は密かに楽しみにしている。
朝、窓を開けた瞬間に入り込む香り。
この時期は部屋の芳香剤もいらないくらいだ。
私の住んでいるアパートの敷地には、ぐるりと囲むように様々な花木が植えられている。
春の沈丁花、夏の梔子、秋の金木犀、冬の蝋梅。四季それぞれに芳香が漂う。
草花も、バラ、ライラック、ジャスミン、アベリア、スイカズラ。
大家さんは、よほど花が好きなのだろう。
ある日、草花の手入れをしている大家さんにそう声をかけたことがある。
「ええ、花は好きですよ。特に匂いの強い花はね。だっていろいろと誤魔化してくれるでしょう?
ああ、そういえばあなたのお隣さん、急に田舎に帰ることになったんですって。今までうるさくしてすまなかったって、言ってたわぁ。ちょっと困った人だったものね。これでもう、みなさんからクレームが出ることもなくなって私も一安心。家賃も滞納していたし、スッキリしたわぁ。
ああ、そこ、そこは踏まないでね。昨夜埋めたばかりだから、まだ土が落ち着いてなくって。そこにも何か植えなくちゃねぇ。今度は何がいいかしら? やっぱり良い香りのお花よね。すぐに臭ってくるんですもの。腐臭っていやね」
『消えた星図』
三つ星が奇麗に並んでいるのがオリオン座。
七つの星が柄杓のように並んでいるのが北斗七星。
おおぐま座とも言うよね。
そのすぐ近くにある、それより小さい柄杓の形をしたやつが、こぐま座。
尻尾の部分にあるのがポラリス(北極星)
そんな風に夜空を眺めるのが好きだった。
今でも好きだけど、もう子供の頃のようにいろんな形の星座を見つけることができない。
視力落ちたなぁ。