『question』
サクリ、とトーストを齧った。
バターの香りが鼻腔を満たす。
向かいの席で夫が蜂蜜に手を伸ばすのを見て、話しかけた。
「蜂蜜って、花によって香りや味が変わるんですって」
「ふうん」
夫が生返事しかしないことなんて、気にしない。
もう慣れっこだし、そのほうが余計な口を挟まれることなく、こちらも思いつくままに喋り続けることができるから。
「有名なのはレンゲだけど、桜や蜜柑の蜜も美味しそうよね」
「ああ」
「うちの八朔の木から採った蜂蜜とか食べてみたいわぁ」
「そうだな」
スマートフォンをしきりに弄っている夫をチラリと見て、カフェオレを飲む。
自家製の蜂蜜なんて無理だけど、庭に生る八朔の実なら、毎年もいで蜂蜜漬けにしている。
今年の実が採れたら、夫に質問してみよう。
「これ、なんの味がするか分かる?」と。
あなたの浮気相手を養分にして生った実なのだと知ったら、甘く感じるのかしら。
『約束』
小さな頃から、言葉に色がついていた。
書かれた言葉にも、口から出る言葉にも。
文字そのものには色はない。
組み合わされ、意味を持って初めて色づくのだ。
本を読むときには苦労する。
紙面が色とりどりで、目がちかちかするから。
人と話をする時は、相手の口からさまざまな色が零れ落ちる。
そんなカラフルな世界にあって、ひとつだけ「約束」という言葉には色がない。というか、真っ白に見えるのだ。
前後の言葉には色があるのに、「約束」だけは白い。ほうっと吐き出された吐息のように。
似たような色合いの言葉に「誓い」や「祈り」がある。前者は僅かに金色を帯びた白、後者は青みを帯びた銀に近い白。
もしかしたら、人の根っこのところにあるのは、この世界との「約束」なのかもしれない。
『ひらり』
君がそこに駆けつけたとき、血だらけの死体を前に茫然としているその人がいた。
唇を真一文字に引き結び、瞬きもせず、瞳孔が開いた目を君へ向けた。
「殺してしまった」
ぽつりと零された言葉に君の頭は回転を始め、すぐさまそこで何が起こったのかを理解した。
見つめ合っているのに、焦点が重なり合わない。
青ざめてはいるが、後悔の念は見受けられない。
動転も自失もしていない。
君は何度も忠告していた。
妻がありながら他の女に手を出すような男はろくな奴ではない、きっとそのうち大変なことになる、と。
それに返ってくるのは、曖昧な笑みだけだったが。
君は深く息を吐き、ぐるりと周囲を見回した。
この現場をよく記憶しておかなければ。
再び見つめ合うと、今度は確かに視線があった。
すると二人の間にひらり、と1枚の花弁が舞った。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、ひらり、ひらり。
君には三つの選択肢があったが、その花弁が死体の頭に落ちたとき、他の二つの選択肢を捨てた。
この後の行動は、君の口から聞かせてほしい。
『誰かしら?』
月桂樹の花の花言葉は「裏切り」。
それを知ったのは、学生時代に短期のアルバイトで花屋を手伝ったことがあるからだ。
「月桂樹の花言葉は『栄光』や『勝利』なのに、葉や花の花言葉はちょっと怖いんだよ」と言われて驚いた。
月桂樹の冠はオリンピックやスポーツの世界大会などでたまに目にする。
けれど、その花が黄色く爽やかな風情なのはあまり知られていないのではなかろうか。
爽やかな見た目と裏腹な花言葉。
花屋のアルバイトから何年経っても、それが頭に残っていた。
社会人になり仕事にもようやく慣れた頃、ある男性と深い仲になった。
入社当時に仕事を教えてくれた先輩だ。私はすぐにのぼせ上がったが、彼には既に妻がいた。
別れてくれるかも、などという愚かな希望を持っていたのは最初の2年ほど。
今ではそんなことは起こらないと分かっている。
ただ、このまま黙って身を引くのが癪に障るだけだ。
だから、毎日そっと彼の家に花を届ける。
月桂樹の花を一枝だけ。
毎日毎日、一枝だけ。
彼の妻がこの花言葉に気づくかどうかはわからない。
ただの不審物扱いをされてもいい。
一滴ずつ垂らす毒薬のようなものだから。
物陰から様子を窺っていると、玄関が開く音がした。
彼の妻が、今日も置かれた月桂樹の花を見つける。
「またあるわ。薄気味悪い。一体、誰なのかしら?」
『芽吹きのとき』
花粉に悩まされる時期は、芽吹きのとき。
涙で目の周りが熱を持っても、鼻水でぐしゃぐしゃなのに鼻が詰まって息苦しい理不尽さも、これらはすべて春の訪れの余波なのだ。
春は好き。植物が淡い色合いに彩られるから。
この季節を恨みがましい気持ちで迎えたくなくて、今日も花粉症の薬を飲む。