『まだ見ぬ景色』
彼に会った夜のことを時々考える。
もしもあのとき彼と目が合わなかったら、私の人生は変わっていただろうか。
それとも、やはり同じような結末を迎えたのだろうか、と。
彼は何人かと挨拶を交わしながら、チラリとこちらへ視線を走らせていた。やがて人を捌き終え、私のいるテーブルへとやってきた彼は、給仕の青年に「こちらに水を」と声をかけた。
まるで、私がそれまでに何杯ワインを煽っていたのか把握しているとでも言うように。
「この集まりは気に入った?」
水を受け取りながら、なんと返事をしたものか考える。まだメインディッシュを口にしていないから。
そんな私の気持ちを承知しているのか、彼は耳元に唇を寄せてこう言った。
「血が飲みたいなら、別室へ行こう」
直截な物言いに驚くと、彼は微笑みながら「君は同類だからね」と囁いた。
その後、別室で起こったことは詳細を省く。ただ、あの日会場にいたのは、彼と私を除くとすべて贄だった。
彼との付き合いは長きに渡った。
そんな彼がなにかを思いついたのか、楽しそうに誘いをかけてくる。
「ねえ君、まだ見ぬ景色を見てみないかい?」と。
私たちの存在が多くの人々に知られ、まさに今、排除されようとしているこの瞬間に。
何をする気か知らないが、もちろん私に否やはなかった。
『あの夢のつづきを』
「邯鄲の夢」という故事があるのをご存知ですか?
貧乏な青年が趙の都・邯鄲で翁から不思議な枕を借り、それでうたた寝をしたところ、栄華を極めた五十年分の人生の夢を見ました。
しかしそれは現実では、眠りに落ちる前に宿の主人が炊いていた粟がまだ炊きあがらないほどの、ほんの短い間のことだった、というやつです。
青年はどれほど目覚めたことを悔やんだでしょう。
夢の中の自分が幸せであればあるほど、目覚めたときの現実との違いに打ちひしがれたのではないでしょうか。
さて、ここに夢から目覚めなくなる薬があります。
特別にお譲りすることができますが、いかがでしょう。
あなたにも、もう一度見たい夢のひとつやふたつ、あるのではありませんか?
夢の中でしか、逢えない人がいるのでは?
さあ、どうなさいますか。
『あたたかいね』
寝起きの布団
潜り込んだ炬燵
ホットの飲み物
ふわもこの耳あて
手編みのマフラー
缶入りのコンポタ
コンビニの中華まん
差し出された、あなたの手
『未来への鍵』
これは未来への鍵。
そう自分に言い聞かせて、今日も鍵穴に差し込む。
しかし解錠される音はなく、扉も開かれることはない。
何度も何度も繰り返してきた。
いつか、懐かしいあの風景へ辿り着けると。
この鍵穴はなんのためにあるのだろう。
外側からしか開かない扉。
私が外へ出るには、徒労だと思っても鍵を差し込むことしかできない。
気がついたら、この部屋の中にいた。
いつの間に閉じ込められたのかもわからない。
傍らには、真鍮でできた小さな鍵がひとつ。
これは、未来への鍵。
これは、未来への鍵。
これは――
『星のかけら』
《精霊の国は死者の国と関連する。
陽は射さず、ただ永遠の黄昏が続くだけ。》
《人が迷い込めばそれっきりで、現世に帰還するにはなんらかの使命を遂行して精霊の役に立たなければならない。》
そんな伝承を読み返しているのは、今日訃報を受けたからだ。
やさしい人だった。
傷つけられた私に「なんて酷い話だ」と慰めの言葉をかけてくれた。
どこかへ出かけると、いつもお土産を持ってその話聞かせてくれた。
訃報を知らせるメッセージに、しばらく呆然としてすぐに返信ができなかった。
その人本人には言いたいことはいっぱいあるのに、ご家族にはなんと言葉をかけていいのかわからない。
人は亡くなると星になるという。
ならばあの人がくれたやさしさは、星のかけらだろうか。