『風邪』
コポコポと音を立ててケトルから湯気が立ち上る。
湿気で曇った窓ガラスの外は、夜でもわかるほど重く垂れ込めた雲で覆われている。
私が住む地域はめったに雪が降らない。
雪と聞いて思い浮かべる景色は、実際には見たことのないものだ。
三好達治の詩の風景。
ぽつりぽつりと建つ和風家屋。
静かにしんしんと降り積む雪。
咳が出たので、またベッドへと戻る。
“風”に運ばれてきた“邪気”を体に引き込んで体調を崩すから、「風邪をひく」と言うとかなんとか。
ぼんやりと、いつもより回らない頭でそんなことを思い出す。
小さい頃は、親が林檎をすりおろしてくれたっけ。
プリンにゼリー。
くたくたに煮たうどんや玉子の入ったおじやもあったなぁ。
思い出すのが食べ物ばかりなのは仕方がない。
私にとって、「風邪をひく=寝込む」なのだ。
風邪をひいたとき限定のやさしい味を、懐かしく想う。
『イルミネーション』
“今までありがとう、でもごめん”
そんなメッセージが送られてきて、私たちの関係は終わった。
十二月に入り、年の瀬も押し迫ったこの時期に。
相手からしたら、年内中に終わらせて心機一転明るく新年を迎えたかったのだろう。
もう、次の恋人もいるようだし。いや、そういう人ができたから私に別れを告げたのか。
少し早めの大掃除が行われた仕事帰り。
通りがかったイルミネーションの並木道で、元恋人とその腕にしがみつくようにしてはしゃいだ声を上げる誰かを見た。
ふうん。
無意識に鞄の紐を握りしめる。
中には、ついさっき職場で使った塩素系と酸性の洗剤。
それと、返しそびれた部屋の鍵。
まぜるな危険、だっけ。
「天国への道は地獄から始まる」
と、ダンテは言った。
だったら、この美しい天上の風景のような道の先には、何があるのだろう。
綺羅びやかに輝く光の渦を抜けたら、きっとそこは真っ暗で。
ぽっかりと口を開いた地獄が待っているのではないだろうか。
『夢と現実』
こんな夢を見た。
ある日、私が常より大分早く帰宅すると、いつもは駆け寄るようにして出迎えてくれる妻が出てこない。
夕飯の支度でもしているのかと、そのまま部屋へ上がると、ソファに横たわる人影が見えた。
珍しいこともあるものだ、きっと疲れているのだろう。
足音を立てずに近寄ると、すやすや眠る妻の頭頂部に、パックリと裂けたような大きな口があった。
普段は高く結い上げた髪で見えないそこに、真っ赤な舌を覗かせながら開いている口。
まるでサメかワニのような歯がびっしりと生えている。
驚きのあまりよろけてしまい、弾みで物音を立てた。
その途端妻は飛び起き、私の姿を見て取るとすっと目を細めて言った。
「これまで仲良うやって参りましたのに、残念でございます」
そうだ、私たちは仲の良い夫婦であった。
嫁いできたときからずっと、妻は飯も食わずによく働き、私はそんな妻を大事にしていた。
飯も、食わず……?
思い起こせば、妻が物を口にしているのを見たことがない。
そんな人間が現実にいるだろうか。
これではまるで、昔話に出てくる――
「旦那様、おさらばでございます」
妻の手が私にのびる。
腕に、首に、女のものとは思えない力で指が食い込んでくる。
これは夢だ。夢でなくては。
こんなことが現実であるはずがない。
そう念じるものの、一向に目覚める気配がないまま、私の意識は遠のいていった。
『さよならは言わないで』
「僕は退屈なんだ。孤独なわけじゃない。だから、わざわざ追いかけてこなくていい」
残った儚いワインが、グラスの中で揺れている。
私がここへ来たのは慰めるためではなく、諌めるためだったのだと彼も気づいているのだろう。
不意にバルコニーへと出てきた知らない誰かが、私たちの存在に気づいてそそくさと戻っていく。
後を追うべきか迷っていると、黒く塗った彼の爪が、ディナージャケットのウール越しに私の腕に食い込んだ。
「さよならは言わないでおく」
いつにない、子供じみた仕草で私を見る瞳に、胸を突かれる。
その一瞬の隙を彼は見逃さなかった。
強い力で引き寄せられ、唇に何かが押し付けられる。
そしてそのまま私を突き飛ばすように、彼は室内へと戻って行った。
バルコニーに独り残された私は口元を手で覆い、そこに残る熱を感じていた。
室内では主役の帰還に華やいだ歓声が上がっている。
今夜は、彼の婚約披露パーティーなのだ。
『光と闇の狭間で』
「生きているふりをするのは、草臥れるね」
喫茶店の隅の席で、その人は言っていた。
常連である私から見ても、いつ家に帰っているのかと疑わしくなるくらい、その人はいつもそこにいた。
そこはレトロなどという言葉では表せないくらい、長く生き残っている風な古色蒼然とした店で、アールヌーヴォー様式のステンドグラスが嵌め込まれた窓から射す一筋の陽光だけが、朝でも昼でも薄暗いその店の唯一の光源であった。
「おかしなことを言いますね」
そう私が言うと、
「だって君、影のない僕らが真実生きていると言えないだろう」
と、薄く笑ってカップに口をつける。
その人は、珈琲にうるさい人だった。
「影が、ない?」
それに、“僕ら”と言ったか。
「なんだい、気づいていないのかい。君だって、もう随分と薄くなっているじゃないか」
その人が指差す先は、私の足元だ。
言われて見れば、大分薄く感じる。
いやしかし、この店内の薄暗さのせいであろうと、頭を振って顔を上げた。
「この店に入ってきたのはいつだい?
この店に来る前の記憶はあるかい?
この店から出た覚えはあるかい?」
薄く笑うその人の足元に影があるのかないのかは、わからない。
何故ならその人はいつも光の射さない隅の席にいた。
薄闇の中で手招く人と私の間には、弱くなり始めた陽の光。
そのあわいも、時間と共に闇に呑まれるのが想像できた。