『理想郷』
「おたくのご主人、浮気してるわよ」
そう忠告してくる人がいる。
いや、忠告じゃなくてからかっているか、馬鹿にしに来ているのかもしれない。
学生時代も「あなたの彼、他の子と一緒にいたよ」とかよく言ってくる人がいた。
人のことに首を突っ込んで、こちらが揉めるのを期待しているのがまるわかりだ。ワクワクしているのを隠しきれていない。
「あら、そうですか」
と答えると期待を裏切られたと憤慨するのだ。
だが、それも悪くない。
まるで私が、ちょっと突つけばショックを受けて涙を浮かべるようなかよわい人間のようではないか。
少なくとも相手はそう思って言ってくるのだ。
いい、実にいい。
帰宅した夫にそのことを話すと、彼も楽しそうに「いい傾向だ」と笑った。
食後にふたりで仕事道具の手入れをする。
血をふき取って錆止めをして、薬物の補充も忘れない。
私たちがどういう人間なのか知られずに、ごく平凡な家庭だと思われているこの状況は、得難い理想郷のようなものだ。
『懐かしく思うこと』
「忘れたくても忘れられない、そんな恋の話でも出来たらいいんだろうけれど、生憎そういうこととは縁遠くてね」
そう言って、月を見上げる人の横顔を黙って見ていた。
「なにしろ僕はほら、春が終わる頃には雪解け水になってしまうから」
異国の地で出会ったのは不思議な人で、そばにいると凍えるような冷気を感じる。
そのくせどこか人懐こくて、つい話しかけてしまった。
「東の国にね、素敵な蝋燭を作る子がいるんだ」
金木犀の香りの、淡く光る蝋燭なのだという。
「その蝋燭に火を灯すと、炎の中にいろんなものが見えてきてね」
見知ったもの、見知らぬもの、幼いもの、老いたもの、美しいもの、醜いもの。
不思議と、どれもが懐かしいのだと言う。
「もしかしたら、僕が忘れたくなくても忘れてしまったものを、見せてくれているのかもしれないね」
君にも一本あげよう、と彼は淡く光る蝋燭をくれた。
手にした途端に火が灯り、たくさんの物や人が次々と灯りの中に映し出される。
「人はそれを走馬灯と呼ぶらしい」
彼の言葉を最後に、私の意識が遠のいてゆく。
遭難した雪山で、凍えて動けなくなった私を見ても驚くことなく、最期まで付き合ってくれた不思議な人。
私が今、穏やかな気持ちでいられるのはこの人のおかげだ。
手の中で小さくなる蝋燭の灯り。
私がそれを懐かしく思うことは、もうすぐなくなる。
『もう一つの物語』
今日もまた、誰かのためにカードを裏返す。
私のところへやってくるのは、何かに悩んだり迷ったりしている人達だ。
彼らの話を聞き、言葉の奥にある悩みや逡巡を探る。
カードには幾つもの意味がある。
読み解くための取捨選択は大事だ。
占い師に必要なのは、インスピレーションよりも相談者の心の内を覗く観察眼かもしれない。
私が告げるのは、あるかもしれない彼らのもう一つの物語。
だからそう、こんなふうに思い詰めて顔を強張らせ、何かを潜ませたバッグを私から隠すようにしているこの人に、どう告げようか。
あなたのその計画は上手くいくでしょう、ですが人生は破綻します。
誰かを害するために、背中を押して欲しくてやってくる人は結構いるのだ。
『暗がりの中で』
暗がりの中で息を潜め目を凝らしていると、獣にでもなったような気になる。
きっと仲間たちも、同じように感じていることだろう。
俺は気配を殺し、辺りを窺い、手にしていた物をさっと放り投げた。
それから5分……10分……
「よし、もういいぞ」
仲間の合図で、詰めていた息を吐く。
それと同時に、誰かが部屋の明かりを点けた。
「うわ、なんだこれ!」
「誰だよ、チョコレートなんて入れたヤツー」
「道理で甘い匂いがすると思った」
先程までの緊張感が一気に消え失せ賑やかになる。
意外なモノが混入されているのも、闇鍋の楽しさだ。
俺は甘い匂いのする手を、みんなに気づかれないようそっと隠した。
『紅茶の香り』
苦しくなったら、たくらみ事を。
復讐や仕返しを頭の中で企てて、その方法や手順をひとつひとつ詰めてゆく。
まずは前提から。
周囲にも復讐相手にも気づかせないやり方か、周囲には発覚せずに相手に思い知らせるやり方か、周囲にも相手にも構わずやりたいようにやるか。
それから内容と程度。
物理的にか、社会的にか、精神的にか。
物理的なら、犯罪になるほどのことか、ならないレベルか。
社会的なら、悪評程度か、職や立場を失うほどか。
精神的なら、ちょっと傷つくくらいか、立ち直れないほど打ちのめすか。
一番簡単なのは、周囲にも相手にも構わず、捕まることすら気にしないやり方だけど。
「どうしたの? 飲まないの?」
親しげなふりをして、これまで私を貶め傷つけてきた相手。
あなた今、私の頭の中で散々な目に遭うところなのよ。
ティーカップを手に取り、一口飲み込んでハッとした。喉を焼くような痛みにカップを取り落とす。
辺りに広がる紅茶の香りの向こうで、相手がニヤリと笑ったのが見えた。