カラフル
散歩していると、花壇にチューリップが咲いているのを見かけることがある。大抵は数本咲いている。朝日を浴びた花びらが自分の生命力を輝かせる様子を見ると、心も晴れる。
特に赤のチューリップは鮮やかだ。他の色よりも誘引性が強いのだろう。自然と目が惹かれる。
ところが、残念、とまでは言わないが、赤のそばで似たような赤系のチューリップが並んでいると、その鮮やかさが弱まっているように見える。逆に白や紫が隣だと、鮮やかさが自乗して広がっているように思える。
カラフルの条件は、似ていない色が並ぶこと、なのかもしれない。十人十色という言葉があるがこれもやはり、同じような、ではなく、別々の、という部分が肝要な言葉なのだろう。
とは言え、チューリップの色、こればかりは致し方ない。球根を植えた段階では、何色が咲くのかわからないはず。赤の隣に赤、黄色の隣に黄色、そんなこともある。運次第。まあ、それも楽しみとするべきか。
そういえば、純粋な青のチューリップはない、と聞いたことがある。青っぽく見せたものはあるらしいが。確か薔薇もそうだった気がする。
神様はどうしてこういうことをされたのだろうか。もし解明できれば、僕たちの持つカラフルの概念が、もうひと段階広がるかもしれない。
楽園
三蔵法師が目指した、天竺への旅路の途中にあるガンダーラは、ある種の理想郷、楽園とされることがある。
ガンダーラは古代インドに実在した王国だ。西遊記の中で具体的な描写があったかは記憶にないが。ヘレニズム文化と仏教が融合した、独特の仏教美術が発展した国際商業都市だったらしい。
何を言いたいかというと、楽園は実在した、ということだ。夢や空想、ましてや現実逃避ではない。ガンダーラは実在したのだ。それは当時の中国の人々からすると、距離的な意味で「遥か遠く」、だったかもしれない。だが、三蔵一行は己の歩みでそこを通過した。楽園に人は届くのだ。
現在では、距離の問題はあまりないかもしれない。現代人にとっての楽園という目的地は、地理的なものではないだろうから。
でも届くはず。己の歩みをとめなければ、自分にとっての楽園にも必ず。
風に乗って
春から初夏にかけて、微小粒子状物質が偏西風に乗って日本に飛来する。
黄砂だ。
洗濯物や車にこびりついてなかなか取れない。
物はまだいい。心配のは呼吸器系にダメージを与えることだ。高齢で元々喘息持ちの父の容態が悪化しないかといつもヒヤヒヤする。
植林などで減らす活動はされているらしい。ただ、これは彼の国で発生するものだ。あの広い国で完全に無くすことは現実的には無理だろう。厄介なことだ。
黄砂に吹かれて、という歌がある。中島みゆきが書いた。恋愛の歌で、好きな人にとっては前向きになれる歌らしい。
僕には全くわからないけど。中島みゆきは本当に黄砂を知っているのかな。恋愛がどうのこうのと歌ってる場合じゃない程、被害があるのに。
だからこの時期の雨は、少し有り難く思う日もある。黄砂の心配はいらないし、畑に水遣りするのもサボれるから。
刹那
成人式で高校の同窓生にあった時のことだ。
2年ぶりに顔を合わせたわけだが、すぐに当時の雰囲気が蘇った気がした。互いを見つけ笑顔がこぼれた。
驚いたのは歩み寄った後のことだ。どちらからともなく、手を差し出し握手をしたのだ。3年間の高校生活で彼と握手したことなど全く無い。自分でも驚いた。なぜこんなことをしたのか。
おそらく、恐れ、ではなかっただろうか。たった2年だが、相手に聞かせる程のいい経験ができたか、不安があった。それが久しぶりの接触のときに、様子をさぐろうとして握手しようとしたのではないかと思う。
笑顔を見せ、近づき、言葉を交わす直前、その刹那でそんなふうに考えたのだと思う。
僕は自分に自信を持てない性質だしね。
でも、彼も同じように手を差し出した。今思うと、もしかしたら彼もそうだったのかも……。
いや、いい。それは彼の領分だ。僕が決める事じゃないな。
あれから会うことはない。
そのうち同窓会があるかもしれない。また握手するかもしれない。もしそうなったら、次の握手は前とは別の気持ちでできたらいいな。
生きる意味
YouTubeをほぼ毎日見ている。ここ何年か、数ヶ月に1度は思い出して見る動画がある。
コモドオオトカゲ、別名コモドドラゴンの捕食シーンだ。
3メートルもある巨大なトカゲで、とても獰猛な性格をしている。鋭い牙で噛みつき、そこから神経毒を流し込む。獲物は血が固まらなくなり動けなくなる。そこからは、この危険な爬虫類の一方的な食事タイムが始まる。
牛のように自分よりも大きな相手の場合、横たわるお腹を食い破り、顔を突っ込んで内蔵を引きずり出して飲み込む。
相手が自分以下の場合、シンプルに丸飲みだ。猿だろうが鹿だろうが関係なし。口からはみ出てなかなか飲み込めないときは、木に押し付けて口の奥に詰め込む。
食事が終わると、でっぷりと大きくなったお腹を揺らしながらノッシノッシと闊歩する。あれだけ食べたのに、顔を見るとまた次の獲物を探しているように見える。底知れぬ食欲に圧倒される。
衝撃的な捕食を見て、残酷だ、えげつないなという感情が少なからず湧き上がっていた。最初のうちは。
不思議なもので、何回か繰り返し見るとそういった無情な思いではなく、どこか神々しく、そして美しく見えてきたのだ。
彼らは、おそらくは、相手を苦しめて楽しもう、という感情はないはずだ。ひたすら、ただひたすら生きることに真っ直ぐなのだ。そのひたむきさが、眩しく見えてくる。自分にはそのひたむきさがないからか、余計に輝いて見える。
もし生きることに意味があるのならば、どれだけひたすらに生きるか、ということに尽きるのではないか。コモドドラゴンは、意味など考えてはいない。ひたすらに生きる。ただそれだけ。ただそれだけでいいのだ。
ただそれだけになりたい。