善悪
個人的な感覚の話になるが、「善悪」という文字、字面といったほうがいいか、妙に並びが良いように見える。文字の上下の作りが似ていて、バランスもそっくり。2文字の距離感も絶妙。付かず離れず。まるで互いが互いを必要としているようで。
鬼平犯科帳には、様々な盗賊が登場する。が、大きく2つに分類される。本格派とそれ以外だ。
簡単に言うと本格派は盗むだけ。それ以外の方の盗賊は、惨殺を厭わぬ悪逆非道の輩だ。
悪事の限りを尽くし、流血の飛び散った千両箱を笑顔で運び出す。盗った金は大抵は遊興に充てられるが、中には変わった悪党もいる。
盗んだ金を自分のためではなく、恵まれない弱者のために遣うのだ。安い金でたらふく食べられる食堂や、ホームレスのための宿を作ったりする。強盗殺人で得た金なので褒めることはないが、それでも有り難く思うものがいることは事実だ。
鬼平曰く、悪を行う者の中にも善は存在する、のだそうだ。
人の心というのは有形無形、本人でさえ完全に捉えることのできないものだ。善と悪を完全に分けるのも、心が凪のときなら出来ようものの、時化のときでも正しい判断ができるとは限らない。
幸い、僕はまだ警察の世話になったことはないが、油断は禁物だ。悪の種が自分の心には無い、と言い切る自信はない。できれば、善の種にだけ水遣りをしていきたい。
流れ星に願いを
神様が地上の様子を覗う時に、天の扉を開く。その隙間から、星がこぼれていく。流れ星は神様がいらっしゃるという合図。
昔の人達はなんてロマンチックなことを考えるんだろう。
現代だと、どうしても科学的なアプローチで完結させてしまう。岩石と空気の摩擦で起こる発光だ、とか。アニメなら、宇宙船が爆発したときの破片だとか。そんなふうに考えてしまうと、お願いをする発想も消えてしまう。ああ、科学とはなんて味気ない。
だいたい願いごとなんてしたって叶うわけない。叶ったためしがない。夢は自分の力で掴まなきゃ。
なるほど。
次の流星群はみずがめ座η流星群か。5月5日から6日がピークと。1時間に最大50個の流星と。 メモメモ。
ルール
欧州の何処かの学校では、親友を作ってはいけないという校則があるそうだ。
親友は英語では、best friend、dear friend、confidante、chum等で表される。
普通の友達はfriend、でいいのだろう。
友達の中で優劣をつけてはいけない、という理由なのだろうが、まったく持って理解不能だ。
この校則は、具体的にどうしろというのだろう。すべての友達には心を開け、ということなのか、誰にも心を開くな、ということなのか。外面重視の、誤った大人の押しつけ。先進主義の欧州らしいと言えばらしいなと思う。
ただ逆に考えると、引っ込み思案の子供にとっては、友達作りのきっかけが出来やすいのかな。みんなが平等に接してくれたら、そういうこともあるかもしれない。
でもやっぱり僕は嫌だな。
この歳になると、上辺の関係の虚しさが身にしみる。必要な時もあるけど、その度、自分の無力さを感じる。まあ、それが人生ではあるんだけどね。
ちなみに、ruleには統治や支配という使い方もある。誰のためのルールなのか、と考えると、やはり上辺の友情には虚しさを感じる。虚しいと感じたい。
今日の心模様
不機嫌そうだ。テーブルに皿を置く音でわかる。険のある音。
何かあった? 恐る恐る年上の彼女に訊いた。
別に。と、だけ。これは……。まずい。原因は全くわからないけど、心のなかで静かな嵐がうごめいている。なんとかせねば。
ちょっとコンビニ行ってくる、と言って僕は部屋を飛び出した。
午後9時。近所の花屋はもう閉まっていた。しかたなく、24時まで開いているスーパーに行った。薔薇を買おうと思っていたがなかったので、別の赤い花を一本買って帰った。
部屋に戻って、彼女に気づかれないように着替えた。そして、テレビを見ている彼女の後ろ姿に、意を決して声をかけた。
すいません、セニョリータ。僕と踊っていただけませんか。
振り向いた彼女が、目を丸くする。
なに、どうしたの。っていうかなんでタキシード着てるの?っていうかタキシード持ってたの?
うん。と言って買ってきた花を渡した。
えっと、ありがとう。なんていう花?
さあ知らない。と僕は答えた。
それで。踊っていただけますか、マドモアゼル。
どうしたの。まあいいけどさ。 やれやれといった感じで彼女が立ち上がる。ほんの少し、頬が緩んだような……。
彼女の手を取る。踊ったことがないのでどうすればいいか迷った。右手も手を握るのか、腰に回すのか。結局腰に回して体を引き寄せた。
彼女がようやくはっきり笑顔を見せた。
とりあえず左右にステップしてみる。足が動くタイミングが合わず、ふたりともバランスを崩す。おそらく経験者でなくとも、不格好なダンスなのは一目瞭然だろう。でも構わず続けた。
こういうのって、音楽かけるんじゃないの?BGMがテレビのお笑いなんだけど。 彼女が至近距離でささやく。
じゃあなにかかける? 僕は訊いた。
んん、やっぱりいい。このままで。
そのまま踊った。踊ったというより、ただ揺れたといっほうが正確かもしれない。結局、動きのバリエーションがすぐに底をつき、5分も続かなかったと思う。
でも機嫌は良くなったようだ。良かった。
結局、彼女の不機嫌の理由はというと、連休に実家に帰る、帰らない、という親との電話での言い合いだった。どおりで僕には心当たりがないわけだ。
兎にも角にも、平和が戻って良かった。
そういえば、あの赤い花はなんていう花なんだろう。あとでしらべてみよう。幸運の花かもしれないからね。
たとえ間違いだったとしても
間違いは誰にでもある。ただそれをどう捉えるか、それが大事。
世紀の大誤審といえば、なんといってもマラドーナの神の手だ。ヘディングと見せて左手でたたいてゴールした。相手のイングランドチームは当然猛抗議したが、判定は覆らず。当時はVARはなかったので、審判の権威主義が優先されたのだろう。
その後マラドーナは悪びれもせず、神の手を使った、と言い放った。やはりスーパースターはメンタルが違う。
と、ここまでの話だと、利己主義礼賛、というふうに思われるかもしれない。だがこの話は相手がいる話だ。相手にしてみればいい気はしない。
イングランドのキーパー、シルトンは、マラドーナを賢い選手と認めつつも、全てを受け入れたわけではない。シルトンはこう言っている。
彼と我々では哲学が違う。
僕は素直にこの言葉はいいなと思った。
勝利は確かに素晴らしい。でもいつも勝利するとは限らない。いい結果だけがあるとは限らない。勝っても負けてもそこに至るまでの何か、哲学なんて立派なものじゃなくてもいいから、僕も自分なりの何かを持っていたい。