泣かないよ
公園に寄り道した。おそらくそんな気がしたから。
ベンチに座っているジャージ姿の幼なじみを見つけた。靴を脱いで膝を抱えて座っている。
僕は黙って隣りに座った。
聞いたの? 砂場に視線を置いたまま、彼女が言った。
うん、と僕は答えた。ミスったって。
うん、と彼女が答えた。私が少し早く出ちゃって。バトン落とした。
そっか。
うん。 小さな声だった。
僕は鞄からペットボトルを取り出し、彼女の前に差し出した。彼女の表情に変化はなかった。
慰めてるの?
いや、なんとなく。
しばらく間をおいて、彼女がそれを奪い取った。
緑茶より紅茶が好きなんだけど。
じゃあ返せよ。
やだ。 封を切って一口飲んだ。
そこからふたりとも言葉もなく、ただ座っていた。下校中のクラスメートがこちらに気づいたようだが、近づくこともなく去っていった。
沈黙に耐えかねてとりあえず口を開く。
大学でも陸上続けるのか?
さあ、わかんない。
やめるのか。もったいない。小学生からずっとやってきたのに。
そうだけど。たぶん大学ってそんなに簡単じゃないよ。他にもやらなきゃいけない事増えるだろうし。
そうなのか。
そうだよ。あんたは?バスケ、やるの?
やる。
そう。まあ、そう言うよねあんたは。
なんだよ、悪いか。
べつに。
そこからまた沈黙が流れた。手持ちぶさたに困って、意味もなくスマホ取り出してはすぐポケットにしまう。そんなことを何回か繰り返した。
もう帰れば。ここに居てもやることないでしょ。
まあそうだけど。おまえは?
居る。もう少し。彼女が小さく言う。
どうしようか考えてる僕を見て彼女は、
大丈夫だから。泣かないし。
うん、わかってる。
なにそれ。本当にもう帰りなよ。
うん、と言ったが僕は立ち上がらなかった。
彼女は抱えた膝の上に腕を組んで、そこにそっと顔をうずめた。それから抑えてきた感情が溢れるように泣き始めた。
だから帰ってって言ったのに。あんたがいるとこうなるから。
うん、とだけ僕は答えた。彼女が泣き止むまで、僕は砂場をただ見ていた。
怖がり
健康診断で、怖がり(要診断)と出た。
去年よりちょっと数値が高いですね、医師が落ち着いた口調で言った。
気にはなっていたんですけど。
野菜、食べてますか。
あまり。
運動はしてますか。
いえ。元々苦手でして。怪我が怖いですから。
体を動かすのも大事ですよ。軽いウォーキングなどでもいいですから。
はい。
睡眠はとれてますか。
あまり。以前、追いかけられる夢を見てから、眠るのも怖くなってしまって。
でもちゃんと寝たほうがいいですよ。睡眠不足は怖がりの天敵ですから。お薬出しましょうか。睡眠の。
あの、どうせなら、怖がりに直接効く薬はありませんか。
あるにはありますが。医師の表情が若干固くなる。
勇敢エックスというのがあります。最新の治療薬なので少し高いんです。その分、効き目はバッチリですが。
ぜひ、それをお願いします。
ただ、効果が出るまで毎日続ける必要があるんです。そうなると費用のほうも。
そんなの大丈夫です。お願いします。
錠剤じゃなくて注射なんですが。朝昼晩、食前と食後に3本ずつ。
……怖いです。無理です。逆に悪化しそうです。
まれにそういう人もいます。
……吐きそうです。たぶん僕、まれな人です。もうずっと怖がりでいいです。
困りましたね。放って置くと自覚症状のないまま悪化していきますよ。最悪の場合、手術が必要になります。
どんな手術ですか。
まず心臓をマントヒヒの心臓と取り替えます。そのあと脳みそを一旦取り出し、洗濯機で丸洗いしたあと、電気針を埋め込んで戻します。リモコンで無事に電気が通れば、成功です。
……僕が震えてるのは怖がりの数値が高いせいですよね。普通の人は今の話を聞いてもなんともないんですよね。
そうですね。
……ウォーキング、始めます。ピーマンも食べます。
星が溢れる
ダムのそばの広い駐車場に停めた。真夜中にこんなところに来るのは、長距離トラックと不届き者だけだ。
誰かと来たことあるの?年上の彼女が言う。
ない。ひとりでなら何度か。
なにしに?
星を見たり、ダムに飛び込んで死のうと思ったり。
なにそれ。彼女が笑って返す。
実際にそういう人もいたらしい。僕はまだだけど。だからパトロールのルートになってる。たぶん、あと30分くらいでくるよ。
なんで知ってるの?
昔、職質された。
本当に?
本当に。
彼女が声を上げて笑った。
死のうとしてるって思われた?
たぶん。でも天体観測って言ったら、信じてくれた。望遠鏡も持っていったから。
持ってるの?今日は?
ない。
なんで?
忘れた。
彼女が口を尖らせた。
都会じゃ見たことないだろうから見せてやるって偉そうに言ったくせに。寒いのに。
ごめん。
もう。
でも肉眼でも十分見えるよ。ほら、と言って空を指差す。
あれオリオン座。
知ってる。見た。すでに。
じゃあ、その近くのすごく明るいのがシリウス。おおいぬ座の。
予想はできた。すごく光ってるから。
じゃああれ、エリダヌス座。オリオン座の左の辺りから繋がってるやつ。
なにそれ。聞いたことない。
だよね、珍しいよね。川の名前なんだって。だから縦に長いんだ。ただ、端っこは鹿児島とかじゃないと見えないけど。
だめじゃん。
うん。
そもそも、形知らないと、空見てもわかんないよ。
そうだね。ごめん。
しばらく沈黙が続く。
帰る?僕が訊く。
ううん、もう少しいる。彼女が言った。
暫くの間、ふたりとも言葉もなく、ただ空を見ていた。長距離トラックのエンジン音だけが聞こえる。
さすがにもう帰ろう。本当にパトロールくるから。職質面倒くさいし。
やだ。もう少し。
帰ろうよ。また来ればいいし。
えー、帰るの?じゃあ、パトカーきたら、いきなり発車してみて。
やだよ。絶対追いかけられる。
捕まったらちゃんと説明してあげるから。
何をさ。
この人のこと、死なせませんから大丈夫ですって。
どういう顔をしていいかわからなかったが、とりあえず、
わざわざお巡りさんに言わなくていいよ、と言った。たぶん、笑顔で言ったと思う。
安らかな瞳
祖父は趣味で油彩を描いていた。部屋ににはいつも絵の具の匂いがしていた。
ある春に、クッキーと紅茶を運んだことがある。彼は腕を組んで難しい顔でカンヴァスを眺めていた。
できたの?
いや、とだけ答えた。カンヴァスを見たままで。
静物画だった。テーブルの上の果物。よくあるテーマだ。
祖父の隣で、僕も腕組みして眺めた。
じいちゃん、下手だね。
そうか。どこがだ。
だってなんか変だから。バランスっていうか斜めになってる。りんご落ちちゃうよ。
彼がようやく僕を見た。そしてなぜか嬉しそうに、そうか、斜めかと言った。
そのあと紅茶に手を伸ばし、またカンヴァスとのにらめっこに戻っていった。だがさっきまでと違って、優しい目になっていた。
後に知ったのだが、祖父はセザンヌが好きだったらしい。あのときの絵は、もしかしたらセザンヌを真似ていたのかもしれない。
僕も子供の頃は純粋だった。
あの絵はどこに行ったのだろう。完成したのだろうか。描きかけしか記憶にない。
ずっと隣で
朝の散歩。冬が終わって再開。でもまだ空気がひんやり冷たい。目が覚める。
コースは決まっていない。朝日に向かったり背を向けたり。決まっているのは時間だけ。
公民館前に田んぼで挟まれた広い道路がある。交通量の少ないこの時間は、人気の散歩コースだ。僕も3日に1回はここを歩いていた。
そこを歩くといつも、ある老夫婦とすれ違う。おはようございます、と必ずふたりで声をかけてくる。僕も返す。ただそれだけ。
ある朝、またその老夫婦を見つけた。が、いつもと様子が違う。いつもはふたり並んで歩いていたのに、その日は旦那さんのほうが前を歩き、奥さんは距離を取って後を歩いていた。
喧嘩かな。だとしたらすれ違うのちょっと気まずいな。などと考えながら歩いた。
おはようございます、旦那さんが言った。いつもより小さな声だった。僕のおはようございます、も、つられて小声になった。
続いて奥さんとすれ違った。
ちょっと喧嘩中なの。奥さんは苦笑いで言った。
なんと言っていいかわからず、僕も苦笑いを返しただけだった。
わざわざ説明しなくてもいいのに。親近感を持っててくれたのかな。
それから冬が到来して僕は散歩をサボっていたが、あのふたりは続けていたのだろうか。次に見かけたときは、また並んで歩いているといいな。