もっと知りたい
コーヒーを淹れてくれた。
おいしい?
うん。
うそでしょ。
どうして。
だってただのインスタントだよ。ふつうの味でしょ。
そう思うなら訊かなきゃいいのに、と思ったが口には出さなかった。
ネクタイどっちにするの? 赤と青のネクタイを両手でヒラヒラさせながら訊いてきた。
青。
えっ、赤のほうがいいよ。と言って勝手に僕の首に結び始めた。
訊く必要ないじゃん、と思ったが口には出さなかった。
晩ごはん、何がいい?
蕎麦。温かいほう。
でもカレーでいいよね。明日の朝も食べられるし。
訊く前から決まってるじゃん、と思ったが口には出さなかった。
どうして彼女は、訊く必要のないことをわざわざ訊いてくるのだろう。
そういえば、言わないように我慢しようと思ったとき、僕を見て彼女はいつも笑っていた。からかってるのかな。
彼女の嗜好がよくわからん。まだまだ観察期間が必要だな。
帰りにチーズケーキを買っていこう。この前、美味しそうに食べてたから。
平穏な日常
耕運機で畑を歩く。歩くといったのは、手押し型の耕運機だから。
1度通るだけではなく2往復ぐらいする。そうして冬の土から春の土に目覚めさせる。商売でやっているわけではないので、それほど大きな畑ではない。2時間もあれば終えられる。いい運動にもなる。
春には種を、初夏には苗を植える。種のほうが安いが、霜の悪事をクリアするのはなかなかに難しい。今年は畝を不織布で覆ってみよう。春キャベツが上手に育つといい。
夏にはきゅうり、ナス、トマトのトリオと、スイカとメロンのコンビがメインキャストだ。これらは最初が肝心、つまり苗選びだ。茎が太くて元気な葉のものを選ぶ。ずっとホームセンターで買っていたが、去年は苗の専門店で買ってみた。少しだけ高かったが、豊作だった。今年もあそこで買おうかな。
野菜作りなんてなんてことないことだが、こんなことが、体はもとより心の栄養にもなっている。平穏だね。
去年、母が僕に内緒でズッキーニを植えた。きゅうりのとなりに。びっくりした。オバケみたいに大きくなる。味は正直なところ、そうでもない。淡いナスといった感じだ。秋に後処理したが、強い根っこがものすごく広く伸びていた。畑の平穏を脅かす存在だと思った。母には言えないが。
愛と平和
太陽が顔を見せ始めた。目覚めてすぐ、いつものようにくちばしで羽繕いをした。健康の為の大事な作業だ。
羽を整えたあと、我が家に異変がないことを確認し、飛び立つ。さて、今日はどこまでいこうか。
砂埃が舞う。乾燥した国だ。寒暑の差が激しい。昔から民族問題や宗教問題が絶えず、更に悪いことに、それを綱引きとして大国が干渉してくる。世界平和度指数163位、最下位の国の空はやはり空気が重い。流れ弾に当たる前にここは去ろう。
海から暖かい風が吹いてくる。緯度の割に温暖なのはこのせいか。火山が活発で温泉も多い。地元民も観光客に開放的に見える。この国は軍隊が無いそうだ。犯罪も少ない。もともと、争うという思考があまりないのかもしれない。福祉水準も高く、LGBTにも寛容的だ。世界平和度指数1位の理由は、そういうお国柄からなのだろう。旅の記念に夜のオーロラを見てから日本に戻ろう。
日本は世界平和度指数9位だという。まあまずまずかな。戦争もなく、世界平和に高く貢献しているといっていいだろう。気になるところといえば、ここ数十年、人が減っているということだ。平和で経済的にも豊かと言われている国なのに、愛の数が減っているのか。人間の社会は複雑だな。
巣に戻ると、伴侶が出迎えた。旅で疲れた羽を、くちばしで優しく繕ってくれた。
餌は取ってきてくれました?
あっ、と声を出す。
今度、温泉にでもいこうか。いい所を見つけたんだ。
もう、また誤魔化して。明日は忘れないでくださいね。
過ぎ去った日々
子供の頃の過去は、昨日しかなかった。大人になると、そこに後悔が上積みされていく。もちろん、いい思い出も多少はあるが。
ただ、明日はもっと高く飛ぼう、速く走ろうと思ったら、そんなものはなんの意味もない。
今まではどうでもいい。前だけを見よう。間もなく春だ。全ての雪が溶ける。だから尚更そう思う。まあ正確には、そう思いたい、思えたら、かな。
飲み込んだコップの水が、全て体外に流れるわけではない。一部は体内に残り、血肉と化して僕自身を作っていく。それこそ良い水も悪い水も両方だ。多少の悪い水でも、体は問題なく生命を維持しようとする。
心のほうは。
やはり心もそうなんだろうね。水が不味かったという記憶は、捨てようと思ってもなかなか捨てきれない。脳みそにこびりついて、そのうち錆びて剥がれなくなる。それでも前を向こうとする心は不思議と無くならない。
結局、そういうものなんだ。生きるって。仕方ない。錆を落とそうとするのも疲れた。そのまま行くしかない。
お金より大事なもの
どこまで歩いても同じ景色が続く道を、君は歩いたことがあるか。私はある。勘違いしないで欲しいが、今言った道は物理的な道ではなく、あくまでも心の中の道のことだ。
難しい話ではない。水も食料もある。明日着替える服もある。だが、胸に大きな穴が空いている。底のない暗い穴だ。放っておいても生きていけるがそのうち、そのままでは生きている価値がないことに気づく。そういう意味の話だ。
このままではいけない、そう思うだろう。何かで埋めなくては、と。さて、君なら何で埋める。愛かね、それとも思い出。シンプルにお金という選択肢もあるかもしれない。
ちなみに私の胸の穴はもう埋まっているよ。何を詰め込んだかわかるか。
宿命の対決だよ。山盛りの。ただの対決じゃない。宿命の対決だ。ただの対決なら、片足のエイハブは白鯨に立ち向かうことなどしなかっただろう。
わかったか。わかったなら私の目を見ろ。君の前に立っているのは、そういう男なんだ。
私は拾い上げた拳銃の銃口を、彼の額に押し付けた。震えが銃身から伝わってくる。
さっさとやつの居場所を言え。それとも、君が私にとっての白鯨になるかね?