月夜
夜を歩く。残業でやむ無く夜に歩かされるのではなく、自分から。昼の喧騒が消えたせいか、街が自分の為にだけあるような気がして気持ちが弾む。
3月初旬頃は、まだ冬の星座が楽しめる。もしふたりで歩いたら、オリオン座が見える、などと話したりするのだろうか。
逆に月夜なら何を話すだろう。月がきれい、と言うのかな。それはそれでいいのだろうけど。少し苦手かな。
月の光は強い。星もほとんど消えてしまう。オリオン座さえも見えづらくなる。きっと僕なんか完全に消えてしまうだろう。
でもその分、月が彼女を照らしてくれればそれでいいか。彼女を頼りに迷わずに歩ける。
絆
隅のテーブル席をひとりで独占していた。土曜日の午前中はよくここで過ごす。
古いが清潔感のある喫茶店だ。僕はいつもの席に座る。この席はいつも空いていてくれて、秘かに僕のための指定席だと思っている。
席につくと、アルバイトの若い女性がオーダーを取りに来る。ホットケーキとコーヒーで、いつも通り言うと、はい、とだけ言って下がっていく。
調理するのは、老店主だ。慣れた手つきであっという間に出来上がる。本を開いて待っていたが、それもつかの間、テーブルに運ばれた香ばしい香りがページを捲る手を止める。
シロップたっぷりのホットケーキとブラックコーヒー。ちょっと行儀悪いけど、ハードカバーの本を広げながらそれらを堪能する。週末の秘かな幸せ。
数十回通っているので、僕の顔は覚えられているはずだが、アルバイトの女性も老店主も挨拶と注文以外は何も声をかけてこなかった。そういうことを望む客ではないと察していたのだろう。その気遣いもありがたかった。
特に気に留める事もなかったのだが、喫茶店の名前は『きずな』という。てっきり人と人との繋がり、という意味でつけられたのかと思っていたが、もしかしたらそうではないのではと最近思い始めた。
人と人の間、という絆は比較的最近の使われ方らしい。本来は、動物を繋いでおく綱、という意味だそうだ。
絶品のメニューと心地良い雰囲気、という綱で、僕はこの店に繋がれているのでは。なんてことをふと思った。美味しいコーヒーを愉しんだのに、あいも変わらず僕の心は捻くれたまま。
たまには
さよならを言われたことがある。ふたりに。そこそこ生きていればそういうこともある。
言われたとき、悲しかった。どちらも理由は訊かなかった。そもそも自分と一緒にいてくれる事自体、不思議だったから。
でも1番悲しかったのは、続かなかったのは自分のせいだ、と何故か自然と受け入れている自分に気付いたこと。自分のことを自分は嫌いなんだって思い出したこと。
自分は悪くないって、たまには自分に言ってやろう。
それから、たまには夜中にアイスクリームを食べよう。たまにならそういうのも良いはず。
大好きな君に
朝方、布団から脱出し、少しだけ爪を立てて僕の顔をちょん、と突っつく。早くストーブをつけろとせかす。目をこすりながら起き上がり、スイッチを押して僕はトイレに行く。
戻ってみると、温風はまだ吹いていない。まだかまだかと、立ったままストーブとにらめっこしているその背中。なんとも愛らしい曲線。
ストーブで温まったあと、餌を食べてまた温風の前に戻る。二度寝の始まり。
昼少し前にお目覚め。日の光を浴びながら伸びをする。その後突然走り出す。庭の柿の木に駆け登り、太い枝に鎮座する。そよ風ごときでは微動だにせず、遠くを見つめるその姿。なんと雄々しいこと。
かと思えば、木から降りて僕の足元でゴロンと倒れ、腹を見せる。よしよし、なでてやろう。この甘えん坊め。
部屋でPC作業していると、ドアを開けろと鳴く。手を止めて開けると、走ってデスクに飛び乗る。机上の様子を見回し、モニターに顔をこすりつけ、ひと通りのルーティンを済ます。異常なし、と確認しまた温風の前に戻って寝る。可愛い。とても。
という話を年上の彼女にした。
わたしの家、昔から犬派だから。冷徹な声だった。
それは知っていた。でも、だからこそ君に知って欲しい。猫がどんなに可愛いか。どんなに素晴らしい家族か。
猫飼ってみようって考えたことない?
ない。犬飼ってるし。
そう。飼わない?
飼わない。あなた猫っぽいし。それで十分。
これはどう受け止めるか。うれしいでいいのか。
ひなまつり
男兄弟しかいなかったが、母は毎年ひな人形を飾っていた。古い人形だった。
子どもの頃は嫌いだった。着物もところどころ傷んでいて、どことなく陰気な感じがしたし、何より僕は男だから。ただ、母がとても丁寧に飾っていたので、口には出さなかった。
高校生の時。ひな人形は、子どもの代わりに邪気を吸い取ってくれるというのを知った。
帰宅して棚の上のひな人形を見て、とても申し訳ない気持ちになった。
化学のテスト、16点だったから。
という話を年上の彼女にした。
今年も飾ってるの?
ああ。画像が来た。
良かったね。そのおかげで、いい女と一緒にいられるんでしょ。彼女が意気揚々と言った。
邪気を払わないと会えない人なのか、と口に出かけたのを慌てて飲み込んだ。
上機嫌でいてもらおう。ひなまつりは、やっぱり女の子が主役だからね。