必死に絞った声を、「真面目に歌え」と叱られてから人前では歌えなくなった。けれど、特に絶望することもなかった。優れたミュージシャンの曲は人々に勇気を与え、希望を教え、時には心の支えとなるが、素人の歌には価値などない。カラオケボックスで陶酔しながら歌う無意味な時間。恋人にオリジナル曲を贈る人間の言い尽くせない不気味さ。本来、才能のない人間に音楽を奏でる資格などなく、オーディエンスに徹することが役目なのである。歌える歌えないではなく、その立場にさえないのだから、自分は大人しく、ただ素晴らしい音楽に耳を澄ませていれば良い。
一度でも本音を口にしてしまえばきっと正気ではいられなくなるだろうから、またヘッドホンの爆音で耳を塞いだ。
日々は、必要としない言葉と知識に曝され続け、少しずつ蝕まれてゆく。手元の板を放り投げ、受け取ることばかり得意になった感性を手放した時、ようやく自分は1人になった気がした。
血迷って聴講した凄腕コンサルタントの欠伸が出るほどありがたいお話を思い出す。不細工な面をしていたな。気色悪い言葉選びだったな。ぶん殴ってやれば死ぬのだろうな。社会への貢献も、挑戦も、もうご苦労な事で。喉から手が出るほど欲しかった「上」は、人間的な魅力を保証するものではないという事を、ようやく思い出した。
ヒエラルキーを横目に、コンビニへ続く街灯の下を歩き出した。
「ただ君だけ」なんて口にできないほど、別れには慣れていた。街は素敵な人で溢れているから、大切にしまったはずの記憶も今で上書きされた。唯一、終われなかった恋は、都合の良い思い出だけ残して、薄れていった。この手で時を止めた君が、ただ、君だけが、この記憶を彩るもの。二度と、君には会えなくとも。
最終列車に乗り込む。窓の外の疲れた顔と風の音だけが対峙する。世界に一人のようと浮かれつつ、気がつけば風に息を潜めて時間は溶けた。降りた先は、止めどなく多くの声で溢れ返る雑多の街。風の音はどこへやら、一人と一人の雪崩に飲まれて、今度こそ本当の一人になった。
すっかり日が昇りきった時間に目を覚ました。独り身の人間は、今首をくくったって誰にも気付かれやしない。存在価値なんてものは他者によって形成されるため、一人の時間は社会から自分を失わせる。自由は好きになれない。
外へ這い出て街を歩いていく。本屋に入り、気恥ずかしいタイトルの本を開く。拙い感想をノートに綴る。少しだけ、自分の形を取り戻す。自由の時間は、嫌いになれない。