平凡な「夫婦」の目の前に、一匹の悪魔が現れた。
時間帯は夜で、男はベッドで寝ている。
女の方だけが目撃した。
「そんな男で一生添い遂げる気か。もっと裕福になりたいだろう。途中で捨てちまいなよ」
「そうね、その方がいいわね」
女の方はすんなりと了承した。
悪魔はケケケ、と笑った。
男は一途だが、女の方はあっさり。
夫婦の関係は、こんな風にあっさり切られるものだ。
「良い男に、紹介してあげるよ。来な」
悪魔は手を差し伸べ、夜空のもとでデートをすることにした。しかし、女はそれを断った。
「どうして断る?」
「たしかに、この男は貧相な性格よ。おそらく5年がそこらで飽きてしまう。でも……」
彼女は、手を伸ばした。
「『これ』以上に良い物なんて、要らないの」
「ちっ、これだから人間は」
悪魔は開け放たれた窓から退散した。
男のモノは長いほど魔除けになる。
女の夜もそれで長くなる。寿命も長くなるのだ。
「どうすればいいの?」
このお題を見て、僕は以前20歳のニートと会話したことを思い出した。
彼との出会いは精神科での集まりだった。
社会復帰を目指す、あるいは社会復帰した者たちで構成された参加者たち。
精神科クリニックの一室に集められた数人。
僕と彼は、その参加者だった。
ニートである彼は運動不足と食欲のない貧相な身体つきでポツポツ呟いた。
小学五年生から不登校生活は始まった。
それから20歳。ずっと不登校でいる。
中学、高校とまったく通っていない。
今話題のフリースクールも通っていない。
中卒確定。だから、受験というもの、宿題というものなどまったく知らないという。
約九年間自宅で引きこもっていた。
それで、冒頭のセリフということだ。
危機感を持っていると言っていた。
危機感? ははっ。
危機感があったら9年間もニートしてないだろ。
不登校とニートについて、心のなかで蔑んだ言葉が湧いて出た。
今では恥ずかしいものだが、自己肯定感が低かったのだ。自分の存在を理解するために、ネットで不登校ニートや派遣社員などのブログを頻繁に読みあさっていた。自分も同じようなもの。コメントは残さない。感想として上手く言語化できない、ドロッとした醜い感情。
ファシリであるクリニックの先生が、悩める彼について僕にアドバイスはないかと話を振ってきた。
僕には不登校歴が1.5年、ニート歴も1.5年あった。
それでも、社会復帰できている。正社員をやらさせてもらっている。もう二度とこんな奴にはならないぞ、という、一種の同族嫌悪である。
ファシリには申し訳ないが、僕はアドバイスを送るような人間ではない。
ネットの世界で散々貶したのだ。
彼のような無職ニート、不登校に対し、努力がないとか、やる気がないとか。
言葉にして残していないが、同調したのだ。
そんな甘ったれたこと言ってんじゃねえというドロドロとした黒い何かを吐き出そうとした。
でも、そんなこと……。
口を閉ざす。
面と向かって話すほど、彼を傷つけることはできない。
ニート・無職像は、ネットに属する画面の向こう側だから、あんな言葉が湧いて出るのだ。
「アドバイスできません。僕の人生のどこを探してもありません。とりあえず、うつを治したらどうでしょうか」
それだけを答えて、あとは別の話題へシフトした。
以降ニートの彼が喋るターンは来なかった。
僕がずっと喋っていた。雄弁は銀、沈黙は金。
そんなわけがない。
宝物を守るミミックは、本日もダンジョン内をおさんぽ中である。
薄暗い地下ダンジョン。
攻略難易度は高めな方で、実際、そのミミックは百戦錬磨の無敗であった。
実はラスボスの魔王や裏ボスであるダンジョン最下層に座す主よりも強いのではないか、という噂もある。
実際、箱の中には、ラスボスをハムのようにスライスしてしまうほどの伝説の武器が何本も入っていたりする。
しかし、ミミック的にはそれら伝説の武器たちを丁重に運ぶことなどせず、ガッチャン、ガッチャンと、中身を揺らして歩いている。
いわゆるジャンプしての移動はしていない。
歩いているのだ。
ミミックは宝箱であるので二足歩行ができる足は生えてないが、どこか生えているような気がする。感情もある気がする。
スキップ、スキップ。
身体(箱)の重心を交互に、左右に、傾かせて。
見えない音符と見えないリズムを奏でている。
「……」
ミミックは、ふと耳を澄ますようになった。
身体を固まらせて、閉じた宝箱となっている。
変な場所で静止したが、その辺は問題ない。
意外とツッコまれたことはない。
電源が切れたように、もう動かない。
ちなみに箱の装飾はちょっと豪華である。
以前は普通湧きのボックスのように、錆だからけの金具に薄汚れた木箱を連想させる見た目だったが、いざこれがミミックだと分かると、冒険者が舐めてかかってきてしまう。
犠牲者の屍の山がダンジョンに積もって、掃除が大変だと魔物たちが愚痴を零していた。
だって歯向かってくるんだもん……。
ミミックがシュンとしていると、魔物たちは提案した。グッドアイデア。ミミックは宝物の中からアクセサリーを取り出し、箱の装飾を頑張って飾った。
十字の分岐路の一方から、冒険者一行がやって来た。
「おい、あれ」
「あ、宝箱……」
男が気づき、女が目ざとく視線を揺らす。
赤色のネックレスの反応が良い。
典型的なメンバーで構成されている。まだミミックだとは気づいていない。女が近づいて、箱を開けようとした……。
恒例行事。
口を大きく開けて、伸びた手を噛みちぎろうとした。
「うわっ、ミミック!」
「くそ……」
一行の目がきつくなり、臨戦態勢。
ミミック側は、ちょっと甘噛みして逃がす予定だったのだが、そんなにやる気なら仕方がない。
本日は気分が良いから相手になろう。
箱の蓋をぐっぱりと回し開け、中身をよぉく見せた。
中には山盛りの綺羅びやかなゴールド、歴戦の勇士が所持した豪華な戦利品。それから紫色の……よく知らない空気の塊。
それらをとことん見せてから、戦闘に入る。
そうすると、ゲームのシステム上「逃げられないバトル」に進化する。
とりあえず、男どもをザラキで即死させてから、可愛い女の子を土下座させたい。
1分後にそうなって、3分後には意気投合。
一緒にダンジョン内デートをすることになった。
女の方が少し怯えているようだが、ミミックにはよくわからない。
スキップ、スキップ。
こうやって、地下ダンジョンの魔物たちに見せびらかすことを毎日やっている。気分が良いのはそれである。
ダンジョン外にこの噂は広まることはない。
その辺は抜かりない。
「逃げられないバトル」なのだから、男たちに死に戻りなんてさせない。
キャンドルの火の消し方って個性があるよなあ、って思った。
息をかけて吹き消す。
火の根元を指で摘むように消す。
コップか何かで覆って、酸欠状態にして消す。
水をかけて消す。
あとは何かあるかな。
あっ、ロウを燃やし尽くして消えるというのがあるな。
だったら、ロウを溶かしてしまうというのもある。
火が消えるためには、ロウという燃料に着目すればいい。
そうなると、大きな火で炙って、瞬く間にキャンドルそのものを消してしまえば、キャンドルの火は消えるな。
と考えた。
火を消すために火を点ける。
面白い発想だ。
このアイデア、どこかで使えないかな。
「たくさんの想い出」という題名の泉を展示しているという美術館にやって来た。
高めの入場料を支払って、彼はゲートをくぐる。
道中の、細々としたつまらない展示品に興味はない。
油絵の風景画、木組みの工芸品、よくわからない彫刻。
それらについて、思索の時間を取らず、横切っている。
数分後、外に出た。
中庭のような、建物と建物の間にある広がりだった。
メインの展示品は、ただの水たまりではなかった。
泉に注ぎ込む水路がいくつか設置してある。
上から俯瞰すれば、星形の頂点が外側に延長されたような感じである。
水路は五つあった。ちょろちょろと、水路を流れる水の流れは外側から内側へ。つまり五つの水路が、直接中央にある一つの泉へ注ぎ込まれている。
水路といっても、そう大層なものではない。
パイプを横にスライスしたようなものである。
家の屋根にある、雨樋みたいな。
そのような大きさでしかない。
そんな飛び越えられる程度の大きさでしかない小さな水路を、いくつもの小洒落た渡し板が掛けられていた。
渦を巻くような、泉の周りを周回させる感じである。
柵はないから、そのままショートカットするように、ぴょんと飛んで、中心を目指した。
泉に到着しての感想、意外と池だな。
直径は五メートル程度。
だが、遠くから見たほうがよかったと後悔する。
至る所に苔のような暗い緑が敷き詰められているし、汚い沼のような、ぷんとしたニオイを解き放っている。
泉は乾いているようにしか見えなかった。実際、三センチもないだろう。
なんだ、5600円が無駄になった。どうしてくれよう。
憤怒の感情を剥き出しにして、きりりと引き返そうとした。
彼が来たところから、車椅子の人がいた。こちらにやってくるようだ。
付き添いの人が押してくれるタイプで、車椅子に座っている人は女性だった。
制服を着ていた。とても若い人。
子どもだろう。小学生? わからない。
そのような華奢な体つき。
車椅子でも彼のようにショートカットできそうなものだった。しかし、車椅子の人は順路通りに従った。
泉を回るようなゆったりとした試み。
沈黙であった。彼は立ったままでいた。
彼女もまた沈黙だった。手押し車に乗せられたか弱い小動物のように、身体をじっと固めていた。
彼女を眺めていると、いつの間にか怒っていたことなんて忘れて、時計の一周を感じさせた。
人物像の輪郭が分かるようになると、座った彼女の目は閉じていた事が分かった。
やがて、車椅子と付き添いの人――どちらも女性だった――が泉に到着した。
付き添いの人は車椅子を固定したあと、一歩二歩下がって佇む。車椅子の彼女は深呼吸して、
「いい香りです。スイレンが咲いていますね?」
彼女は嗅覚にすぐれた。
付き添いの人は「ええ」と頷き、じっくり鑑賞していた。その後、「たくさんの想い出」という泉に付けられた題名について、議論を交わしている。
彼は、どこにスイレンがあるのか、細い目をさらに細めて泉の範囲を探している。
書き忘れたが、彼は極度の近視である。鼻もバカな方である。学もない。