鏡の上に鏡の絵を描くという発想は、到底思いつかない。
確か『暗黒館の殺人』だったと思う。
詳細は伏せるのだが、山奥深くに住む館の住人たちは奇妙な秘密を抱いていて、特に館の主人は、毎日その鏡の上に描かれた鏡の絵を見るという。
当然絵なので、自身の姿は映らない。
そのことに主人はホッとするという。
そういった奇妙な行為をする。
絵は、たしか油彩だったか、水彩だったか忘れたのだが、まあ、やがて時が過ぎるごとに風化し、表面が剥げ、キラキラと鏡本来の性質が見えるようになる。
そのことに、館の主人は逆に恐れおののく、という場面がサラリと描かれる。
どうして?
という理由は、ネタバレになっちゃうので、書けないのですね。
『暗黒館の殺人』は、全4巻からなっていて、まあ1000ページは普通に超えるでしょうという長編ミステリ。
タイトル通り、『暗黒館』と呼ばれる真っ黒の洋館内で連続殺人が起こる。
いわゆるクローズドサークルというもので、この鏡の絵というもただの小道具かと思いきや、ちゃんとした機能を持つ、どんでん返しの一助を担う。
これだけでストーリーが浮かびそうなのに、こういったアイデアを多量に含ませて、あの長編ストーリーを描けるのは、やっぱり大御所だよね〜。
という感じに落ち着いてしまう。
いつまでも捨てられないものを捨てよう!
という「断捨離」ブームが、数年ごとに流行っているような気がする。
たぶんコロナ禍終わりが直近だろうか。
大人では断捨離という言葉が流行っているが、漢字で固められていて若者受けしないためか「ミニマリスト」という言葉に言い改めた。
ちょっと言葉の定義が異なるのだが、トマトとトマトジュースくらいの違いだから、まあ別にいいだろう。
生食用トマトを使っているか、加工用トマトを使っているか。そのような具合である。
たくさんのモノに囲まれた生活では、時間の推移とともに干潮と満潮を繰り返さないといけない。
潮の満ち欠け具合は、海の話ではない。
モノの量の話だと思ってほしい。
モノが満潮時になると、月の引力に従うように物を浮かして、掃除機をかけないと干潮にならない。
ああ大変。どうしてこう大変なんだ。
グチグチと愚痴をこぼし、物をどかしては掃除機で吸う。
しかし、こうした掃除をするときほどよく考えてほしい。
物を買いすぎじゃないか?
要らない物を、家に溜め込み過ぎじゃないか?
欲しいから買う。欲しいから買う。
そのことを繰り返して、要るモノ要らないモノ問わず、モノを持ちすぎている。
――捨てよう! そうすれば過ごしやすくなるよ!
というのが、このムーブの主張である。
たしかに一理あるのだが、何となく古いものを捨てさせて、心機一転新しい物に目を向けさせて購買意欲を湧かせようとする安いセールスを感じさせる。
あるいは、「捨てる生活」というキャッチフレーズによって、目的のすり替えが発生してしまっているような気がしてならない。
生活の質を高めるどころか逆に下がってしまって、
「なんか前に断舎離したんだけどな……」
という、努力の果てにある落胆を感じさせるものがあったりする。
僕もそのムーブにあやかり、コロナ禍のときに断舎離をした。
今は中古本が収まっているが、断舎離前は小中学生時代の作品が飾られていた。
図画工作や技術家庭の作成キット、中学生卒業時に貰える造花(胸ポケットに差さる小さいやつ)も飾ってあって、いつ捨てるんだろうなとか他人事のように思っていた。
「ああいうものは写真に撮っておけば、何時でも見られるようになるので断舎離しやすくなります」
などという言葉を鵜呑みにし、その通りにした。
たしかに捨てやすくなり、丸ごとバナナのようにビニール袋に喰わせ、捨てた。
今ではその作品は写真一枚の偽物になって、本物はもう、焼却炉の中でまぜまぜされている頃だろう。
いつまでも捨てられないものに対して未練を感じる人はいいな、って時折思ったりする。
ストーリーがするすると書けている。ストーリーの正体は正体不明の未練だと思うけどね。
ただ、有形を無形に変える文化が浸透して、当たり前の世の中になってきている。
それが果たして良いものかどうか、僕は測りかねている。
物を捨てること。
まるで見えない何かも捨てているようで、それが焼却炉の中の有象無象とともに、無造作にまぜまぜされていることに、忸怩に似た思いを感じるのはどうしてだろう?
分別を間違えたかもしれない。
誇らしさというのがお題である。
誇らしさ、とは何だろうか。
ざらっと他の人の投稿を見たのだが、いまいちパッとしないことを書いている。
みんな戸惑っているようだ。
う〜む、仕方がない。
誇らしさを探しに行こう。
例えばケーキ屋さんとか。
僕の場合、もうコンビニでいいかというていたらくなので、貧民救済のようにどこにでもあるコンビニのスイーツで済ましてしまう。
最近のケーキ屋さんは、どうなっているんだろう。
よく知らない。
自転車で15分。
シャトレーゼ的な小綺麗な建物に入店して、様々なケーキの入ったウィンドウを見ていった。店員はいない。
セルフレジか。
「いらっしゃいませ!」と、ケーキが喋った。
「さあ、私のことを食べてください。とても美味しいですよ!」
なるほど、最近のケーキ屋さんは喋るケーキを売っているのか。
コンビニに客が取られたことで、フランチャイズでもなく、店長を解雇して、ケーキに喋らせるようにしたのか。
なるほど、狂気である。気持ち悪い。
「お買い求めいただきありがとうございます!
ありがとうございます! お会計は800円です!」
「PayPayで」
買ったケーキがレジ打ちをし、レジ機のテンキーは生クリームで汚くなってしまったが、そういった汚れ仕事はケーキ屋の仕事でいいだろう。
保冷剤を適当に入れて、家に帰った。
鍵穴にカギを入れようとしたとき、「誇り」とは何かについてなんとなく察した。
バカみたいな例えだが、ここにケーキを入れても扉は開かない。生クリームでベトベトになるだけである。ここは、ここぞというときにカギが必要なのである。それも、鍵穴にあう、カギが……。
「さあ、私のことを食べてください!」
ちょっとうるさくて、思考が停止してしまった。
とりあえず家中へ。
外から逃れてきたままにリビングについた。
すかさずケーキは喋ってきた。
そういえば、外にいた時は喋ってこなかったな。
公共の空気を感じて、ケーキになりきっていた。
屋内から外を通り、別の屋内についたことで、マジョリティのあるケーキからマイナーなケーキに変わったようだ。
でもマイナーなケーキ、喋るケーキは食べる気が起きなかったので、コンビニに行って普通のケーキを買って、それを食べることにした。
喋るケーキは冷蔵保存して、しばらく無視することにした。
1年後。
「普通のケーキはもう食べ飽きたでしょう? さあ早く私を……」
あれから1年ほど経っているのだが、まだ喋っている。
冷凍庫に入れたら黙ってくれるのだろうか。
入れてみたが、まったく黙ってくれなかった。
「ああ……、買ったというのに食べないという放置プレイ。それもそれで本望です……」
雪女ならぬ雪ケーキである。
そういえば、そういう商品名だったような?
夜の海に行くと神隠しに遭う。
という言い伝えが古くからあった。
推定100人以上の女子供が神隠しに遭って、夜の海岸および夜の砂浜は、季節問わず幽谷の谷底のように、感情の起伏がなかった。
夜間より太陽が目覚めて、海と海岸線を明るく照らし出すようになってもなおのこと地元民は近づかず、何も知らない観光客の一群が、浮き輪やパラソルやレジャーシートなどを敷いて、日が沈む前には宿に引っ込む。
そして夜の海。
数時間前まではあんなに忙しなかった、都会の喧騒の一部具象化があったというのに。
今はもう赤ん坊さえ寝静まる神隠しの様相。
……私も、その一人になるのかもしれなかった。
台風が過ぎ去りし夜は破天荒。
髪を揺らし、服も揺らし、心もより動かされている。
おそらくもう暴風域に入っただろう。
大雨のなぶり殺しにあったというのに、今は風以外は穏やかなで、しかし黒染めされた夜の海は豪快に荒れ叫んでいる。叫んだときの生唾のように飛んできた飛沫。同族であれば今すぐにでも退出したい気持ち悪いものだが、今は違う。自然の力の一端を知った。
小さい頃、子守唄のように聞かされていたものがあった。夜の海にだけ、古都の神社が眠っていると。
それは、まるで広島県の厳島神社のような佇まいだという。
台風の暴風により、夜の海の表面が剥がれかかったときにだけ、頭頂部のみひょっこりと現れるものだという。
私はそれを観に来たのかもしれない。
一向に現れない。
赤い鳥居が海の底。
色素は褪せて夜の海に溶け込んでいるのかもしれないが、それでも神域の入口の役割をしている。
俗世と聖域。その境い目。
普段は海の底のピアノのように、指の爪さえ届かぬ場所にて忘れ去られていて。
今夜のような、拝観料の要らない日に限り、宮司さえ見ることの叶わなかったかつての御神体が公開される。
至高の入口。
それをくぐる機会が仮にあったのだとしたら。
それが今だとしたら。
それが……
それが。
……。
後ろを振り返ると赤い鳥居があった。
目の前に目を戻すと。
ああ……私はもう、10X体目の古神像。
自転車に乗って、お題は走る。
それを追うのはいつも僕。
「待って。待ってよ〜」
こんなことを書くつもりはなかったのに。
昨日のお題だって、あんなの書くつもりはこれっぽっちもなかったのに。
「心の健康」から、どうして大乱闘リアルタイムブラザーズになったのか。不明。不明だ。
心の不健康がダダ漏れ。
ご存知の通り、お題を追う僕は、文字を落としながら走っている。
コインを落として三千里。それが天の川になっていく。
足元から自身の後方へ遠ざかっています。
誰か、拾っちゃってください……
差は少しずつ縮まっているようだが、秒速3センチメートル程度である。
何メートル離れているかなんて、追跡している僕の心に余裕はない。ただ走っているのである。
連鎖的な音が鳴っているのを、僕は無視しなければならない。
あれが止まりません。
あれとは、何ですか。
文字です。
血反吐のような文字です。
お題、目の前のお題……。
かごにお題を載せた自転車も、よろよろとしている。
今にも倒れそうだ。
T字ハンドルを左右にゆらゆらさせて、前輪はイヤイヤ期の子どものように揺らしている。
煽っているように見えるが、どこか憎めない。
毎日の日課になろうとしているからだろうか。
地面はものすごく乾いている。
途中、水たまりがあった。
そのため、前輪と後輪の轍が直線的に交差する。
軽い螺旋を地面に描く。
よろよろ、よろ喜び。
ふらふら、フラダンス。
かすれて地面に書けなくなると、ちょうどよく水たまりポイント(補充地点)を通るので、細いタイヤは再び描くことができる。
その薄れゆく轍の跡に沿って、僕の濡れたフットマークが重なる。僕を追ってきた人にだけはわかる、キリトリ線。
「もう、疲れたよう……」
そんなことを言うと、ようやく自転車は、行く当てもなく立ち止まり、やがてガタンと音を立て、倒れた。
ふう、ようやく止まってくれた。
僕は息も絶え絶えになった運動不足のひょろい身体を落ち着かせた。
しゃがんで、ふらっと意識が遠ざかり、大の字。
バシャンッ……。
倒れた自転車は、水たまりの大きいバージョン、湖のほとり。その近くの浅瀬で倒れてくれた。
ああ、全身がすずしい、と思いきや、
「あちっ」
湖の水は、昨今の猛暑により随分と暖められたものだった。淡水湖だから、天然の温泉。
しかし、温度が容赦ないので、このままではのぼせてしまう……。
僕は今すぐ追跡者から救助者になって、溺れた自転車を重労働により立て直した。
逃げるようにペダルを漕ぎ始める。
そして、今きた道を、口笛を吹きながら、おうちに戻っていくのだ。
行きは走り、帰りは自転車。
片手をハンドルから放し、キリトリ線の通りに、道を割くようにして。
そのとき、かごにお題はありません。
倒れた拍子にどっかにいってしまったようです。
だから、最近は帰路の途中でコンビニに寄って、アイスを買うのが日課となっております。