夜の海に行くと神隠しに遭う。
という言い伝えが古くからあった。
推定100人以上の女子供が神隠しに遭って、夜の海岸および夜の砂浜は、季節問わず幽谷の谷底のように、感情の起伏がなかった。
夜間より太陽が目覚めて、海と海岸線を明るく照らし出すようになってもなおのこと地元民は近づかず、何も知らない観光客の一群が、浮き輪やパラソルやレジャーシートなどを敷いて、日が沈む前には宿に引っ込む。
そして夜の海。
数時間前まではあんなに忙しなかった、都会の喧騒の一部具象化があったというのに。
今はもう赤ん坊さえ寝静まる神隠しの様相。
……私も、その一人になるのかもしれなかった。
台風が過ぎ去りし夜は破天荒。
髪を揺らし、服も揺らし、心もより動かされている。
おそらくもう暴風域に入っただろう。
大雨のなぶり殺しにあったというのに、今は風以外は穏やかなで、しかし黒染めされた夜の海は豪快に荒れ叫んでいる。叫んだときの生唾のように飛んできた飛沫。同族であれば今すぐにでも退出したい気持ち悪いものだが、今は違う。自然の力の一端を知った。
小さい頃、子守唄のように聞かされていたものがあった。夜の海にだけ、古都の神社が眠っていると。
それは、まるで広島県の厳島神社のような佇まいだという。
台風の暴風により、夜の海の表面が剥がれかかったときにだけ、頭頂部のみひょっこりと現れるものだという。
私はそれを観に来たのかもしれない。
一向に現れない。
赤い鳥居が海の底。
色素は褪せて夜の海に溶け込んでいるのかもしれないが、それでも神域の入口の役割をしている。
俗世と聖域。その境い目。
普段は海の底のピアノのように、指の爪さえ届かぬ場所にて忘れ去られていて。
今夜のような、拝観料の要らない日に限り、宮司さえ見ることの叶わなかったかつての御神体が公開される。
至高の入口。
それをくぐる機会が仮にあったのだとしたら。
それが今だとしたら。
それが……
それが。
……。
後ろを振り返ると赤い鳥居があった。
目の前に目を戻すと。
ああ……私はもう、10X体目の古神像。
8/16/2024, 9:43:07 AM