いつまでも捨てられないものを捨てよう!
という「断捨離」ブームが、数年ごとに流行っているような気がする。
たぶんコロナ禍終わりが直近だろうか。
大人では断捨離という言葉が流行っているが、漢字で固められていて若者受けしないためか「ミニマリスト」という言葉に言い改めた。
ちょっと言葉の定義が異なるのだが、トマトとトマトジュースくらいの違いだから、まあ別にいいだろう。
生食用トマトを使っているか、加工用トマトを使っているか。そのような具合である。
たくさんのモノに囲まれた生活では、時間の推移とともに干潮と満潮を繰り返さないといけない。
潮の満ち欠け具合は、海の話ではない。
モノの量の話だと思ってほしい。
モノが満潮時になると、月の引力に従うように物を浮かして、掃除機をかけないと干潮にならない。
ああ大変。どうしてこう大変なんだ。
グチグチと愚痴をこぼし、物をどかしては掃除機で吸う。
しかし、こうした掃除をするときほどよく考えてほしい。
物を買いすぎじゃないか?
要らない物を、家に溜め込み過ぎじゃないか?
欲しいから買う。欲しいから買う。
そのことを繰り返して、要るモノ要らないモノ問わず、モノを持ちすぎている。
――捨てよう! そうすれば過ごしやすくなるよ!
というのが、このムーブの主張である。
たしかに一理あるのだが、何となく古いものを捨てさせて、心機一転新しい物に目を向けさせて購買意欲を湧かせようとする安いセールスを感じさせる。
あるいは、「捨てる生活」というキャッチフレーズによって、目的のすり替えが発生してしまっているような気がしてならない。
生活の質を高めるどころか逆に下がってしまって、
「なんか前に断舎離したんだけどな……」
という、努力の果てにある落胆を感じさせるものがあったりする。
僕もそのムーブにあやかり、コロナ禍のときに断舎離をした。
今は中古本が収まっているが、断舎離前は小中学生時代の作品が飾られていた。
図画工作や技術家庭の作成キット、中学生卒業時に貰える造花(胸ポケットに差さる小さいやつ)も飾ってあって、いつ捨てるんだろうなとか他人事のように思っていた。
「ああいうものは写真に撮っておけば、何時でも見られるようになるので断舎離しやすくなります」
などという言葉を鵜呑みにし、その通りにした。
たしかに捨てやすくなり、丸ごとバナナのようにビニール袋に喰わせ、捨てた。
今ではその作品は写真一枚の偽物になって、本物はもう、焼却炉の中でまぜまぜされている頃だろう。
いつまでも捨てられないものに対して未練を感じる人はいいな、って時折思ったりする。
ストーリーがするすると書けている。ストーリーの正体は正体不明の未練だと思うけどね。
ただ、有形を無形に変える文化が浸透して、当たり前の世の中になってきている。
それが果たして良いものかどうか、僕は測りかねている。
物を捨てること。
まるで見えない何かも捨てているようで、それが焼却炉の中の有象無象とともに、無造作にまぜまぜされていることに、忸怩に似た思いを感じるのはどうしてだろう?
分別を間違えたかもしれない。
8/18/2024, 9:40:12 AM