「愛してる」
そんな情熱的で非常に脆い口約束をどう信じろというのか。
何の担保もない、それでいて強烈に心を揺さぶられるその言葉。
「愛が形で見えたらいいのにな」
そうそうと頷きかけて、はたと気付く。
「ダメ。そんなのあなたを押し潰してしまう」
カラカラと笑う君。ひどい、こちらは真剣に
後は強引に重ねられた唇に全てを吸われてしまう。
……少しは伝わったのかしら。
「何だか檻みたいだ」
その遊具を見た時の素直な感覚である。
子ども達は我先にそいつのてっぺんに登り、はしゃいだり大声を出したり、何だかとっても楽しそう。
頭の固い大人の見方と、柔軟な子どもの見方とではこんなに違う。
全ての物事もきっとこうなんだろうな。
四角四面でしか物事を捉えられない大人と、様々な方面から物事を楽しめる子ども。
精神的には大人になりたい、けれども柔らかく素直に物事を楽しめる心を持った子どもの一面も大事にしたい。
そんな風に改めて思った、秋の朝。
「……また会おう」
不気味な程美しく咲き誇る一本の桜を背景に、顔の見えない男がこちらに柔らかく微笑むのだ。
桜の花びらが勢いよく舞い散る。嗚呼止まらない、止められない。
ダメだ、行くな。男は桜の中に吸い込まれる。
桜吹雪が益々激しくなる。まるで男をすっかり覆い隠してしまうように。
必死に手を伸ばす、それでも桜と共に消えてゆく男。
いつもここで目を覚ますのだ。夢の中に毎晩のように出てくる男と、桜。懐かしい声。
「お前は……誰だ……?」
何も思い出せないのに、涙がとめどなく溢れてくる。
必死に記憶を手繰り寄せるも、後に残るのはただただ悲しみという感情だけ。
ハリネズミのジレンマ、正にこの言葉がピッタリである。
私もあなたが好き、あなたも私が好き(多分)。
でもお互いに相容れない。
あなたは中々私の元に訪れてくれないものね。
来てくれた、と思ったらレアメタルよろしくあっという間にいなくなる。
そして短いあなたとの逢瀬を私は心から楽しむことができない。
目が痒いわ、鼻水が出るわ、頭が痛いわで大わらわである。
私もあなたも両思いなのにね
自分を大事にすることの本質が見えていない人は恐らく多い。
私含めて、皆どこかで自分を蔑ろにしてしまっている部分は無いかな?
だからこそ「世界で一番大切な私」、なあんていう歌詞が世の中に台頭するのだ。
できていないからこそ歌にして叫びたい。訴えたい。
最近読んだ本に興味深い内容があった。
自己肯定感なるものは幼少期の環境などで形成される。
例えば何か嫌なことがあったらそれらを全て「私のせいで」とか「私さえ我慢すれば」とか思い込んでしまう。
そういう無意識の心の働きを、その本では「心のノイズ」と名付けていた。
面白いと感じたのはその「心のノイズ」があったから幼少期を生きることが出来たということだ。
親からの躾で認知が歪んでしまってできたノイズは、その当時の子どもを守ってくれていたということ。
昔は「驕るな」「親の言うことは絶対」「人様のために働け」を分かりやすく善としていた。
ただ、それは親が子どものことを考えて発したのであって親を恨むのは筋違いとも書いてあった。
確かに心のノイズがあったから親から叱られず、大人から褒められたりして嬉しい経験も沢山ある。
子どもの頃はそれで良かった。
大人になると急にその人を取り巻く環境がガラリと変わってしまう。
嗚呼心のノイズくん、今まで私を守ってくれて本当にありがとう。
これからは自分のことは自分で守れるからね。
感謝してお別れしようと思う。
まずは無意識の心の癖を知って、それがノイズになっていると理解することから始める。