【始まりはいつも】
トントン、トントン。
ドア越しに聞こえてくる野菜を切る包丁の音。それが我が家における一日の始まり。
枕元のチェストに置いてある眼鏡に手を伸ばし脱いだ寝巻きを手に階段を降りると。出汁の旨みを含んだ味噌汁のいい香りが鼻腔をくすぐった。
「おはよう」
「おはよう、あれ?買い替えたの?」
俺が指しているのは先ほどまで使われていたであろうまな板のことだ。長年使っていた木製のものが寿命を迎えたため、先週手入れの楽な薄手のものに買い替えたはずだった。
「やっぱりね、音が違うのよ」
「音?」
「木のおとじゃないとなんだかシャキッとしなくて」
昨日までいた白いまな板はそこには無く、木でできた厚い板が新しいはずなのに馴染みよく台所に立てられている。
木の優しさ、なんて抽象的な表現は好きではないが、どうやら我が家の始まりに必要なのは『いつものそれ』だったらしい。
まさか人生で九死に一生を得る体験をするなんて思いもしなかった。海水を含みずっしりと重くなった服を引きずりながら身を起こすと、今しがた自分をコンクリートの上に載せてくれた「主」と向き合った。
「あの、ありがとうございます」
『……』
「今度から気をつけます。お礼とか、今何も持ってないんですけど必要なら」
『忘れろ』
でかい。こわい。そして響く声もひくい。如何とも言い難い「主」は簡単に忘れろなどと言うがこんな強烈なインパクト、忘れられるはずがない。
『難しいなら記憶を消すこともできる』
考えてることが筒抜けになっているかのように返事が来る。礼として命を要求されないだけマシかもしれないが、正直未知の生物に脳をいじくり回される方が怖い。
「忘れたくても忘れられないです。でも、忘れたいとも思わないです」
怖くて忘れられないのは本音だ。しかし、息を諦めて沈んでいく体を押し上げてくれた恩を忘れたくないとも思った。小銭すら入ってない上着のポケットを握りしめ目がどこにあるか分からない顔を真っ直ぐに見つめる。つるんとした表面に小さな細波が広がったのは、何の感情だろうか。
カチ、とスイッチを押す無機質な音が鳴る。うっすらと目を開けると、背後から暖色を帯びた光が枕元に差しているのが見えた。
時刻はおそらく日付を越したあたりだろう。隣でごそごそと布団をめくる彼女は最近帰りが遅く、帰ってくるのは私が寝た後が多い。時々その音や明かりに起こされることもあるが、不思議と怒りは湧いてこない。
ペラ、ペリリ。
買ったばかりの本、それもハードカバーと呼ばれる文庫より大きめの本特有の押しつぶされたページが剥がれ、捲られる音が静かな寝室に広がる。
読書家の彼女は疲れていてもこの時間を設けたいらしく、ベッドサイドに置いた間接照明をこっそり付けて私の横で本を開く。そして私は横に並びながら彼女の息遣いが聞こえる偶然のタイミングがたまらなく好きだった。
こちらを気遣いつつも止められない光は、今日もやわらかに彼女の没入する物語を照らしている。
【鋭い眼差し】
目をゆっくり逸らす。音をたてずにしゃがむ。そっと手を伸ばす。
全神経を集中させてそれらの動作を行う友人を離れたベンチから眺めていたが、どうやら上手くいかなかったらしく肩を落としてこちらへ戻ってきた。
「本当に合ってるの?猫が寄ってくる裏技」
「警戒されないって猫写真家の人が言ってたから、間違いないと思うんだけど……」
大好きな猫が寄ってきてくれないから力を貸して欲しい。そう相談され一緒に調べ物をした上で猫のいる公園へ来たが、成果はイマイチのようだ。
「ねぇ、何が悪いと思う?」
「なんだろうねえ」
言えない。あなたの眼差しが猫のように鋭いから、この辺りのボスとして慕われてるなんて。
実は背後では茂みや遊具の影から舎弟のように顔を覗かせている猫がたくさんいるなんて。
強さと愛嬌を併せ持つ友人の可愛い目に涙を浮かばせないよう、必死に言い訳を考えるのだった。
どぼん、じゅわ、と大きめの水音の後に耳障りのいい炭酸の弾ける音が浴室に響く。今しがた湯船に放ったそれは帰り道立ち寄った家電量販店で買った『子供向け入浴剤』だ。
頭を洗い終え視線をやると、水底で徐々に溶け出していた塊はわざとらしいピンク色を散りばめながら浮上する。既にボロボロになりつつあるそれに手を伸ばすと、崩れた中からつぶらな瞳の玩具が顔を出す。
「あんまり可愛くないなあ」
『海のなかまたち!何が出るかお楽しみに!』
そう銘打たれたパッケージに手が伸びたのに可哀想なくらい値下げされていたから以上の理由はなかったが、買ったからには心躍らせる『何か』を求めていたのだろう。
──まるで子供のようだ。
シャンプーの横に小さな魚モドキを置くと、桃の香りのする湯船にいつもより軽い足取りで浸かった。