まさか人生で九死に一生を得る体験をするなんて思いもしなかった。海水を含みずっしりと重くなった服を引きずりながら身を起こすと、今しがた自分をコンクリートの上に載せてくれた「主」と向き合った。
「あの、ありがとうございます」
『……』
「今度から気をつけます。お礼とか、今何も持ってないんですけど必要なら」
『忘れろ』
でかい。こわい。そして響く声もひくい。如何とも言い難い「主」は簡単に忘れろなどと言うがこんな強烈なインパクト、忘れられるはずがない。
『難しいなら記憶を消すこともできる』
考えてることが筒抜けになっているかのように返事が来る。礼として命を要求されないだけマシかもしれないが、正直未知の生物に脳をいじくり回される方が怖い。
「忘れたくても忘れられないです。でも、忘れたいとも思わないです」
怖くて忘れられないのは本音だ。しかし、息を諦めて沈んでいく体を押し上げてくれた恩を忘れたくないとも思った。小銭すら入ってない上着のポケットを握りしめ目がどこにあるか分からない顔を真っ直ぐに見つめる。つるんとした表面に小さな細波が広がったのは、何の感情だろうか。
10/18/2023, 7:09:06 AM