6時課だというのにきみは食堂にいなかった。同じ場所で就業をしていたひとに訊けば、場所を教えてくれた。
石の階段を降りて整地された農園。
その花壇できみの後ろ姿を見つける。
花壇にはまだ花はなくて、やわらかい土が盛られているだけ。煉瓦で囲った外側に、肥料の袋が並べられて、どの区画に撒くのかが記されていた。
「何してるの?」
「わッ、びっくりしました…背後から音もなく」
「んふ、ちょっとね」
振り向いたきみの手には植物図鑑。セピア色のページに彩色した花々の図説がびっしりと載っている。
ぼくはあまりお花に興味がないけれど、きみは真面目に目を通していた。
「調べもの? そろそろお昼にしようよ」
「いえ、調べものというほどでは。すこし、気になったんです」
「お花が?」
「農園の花は薬草として育てられていますから、花が咲いたりしたらすぐに摘み取ってしまうんです。だからあまり花の形とか色をじっくり見れなくて」
「ふぅん」
まだ何も植えられていない花壇。ここで育てられるものはすべて薬の材料になるから、ここには残らない。
最近は風邪が流行しているし、近隣諸国との情勢もまあまあひどい。
兵士は戦場に送られて、もちろん怪我をする。野戦病院でも教会でも薬はいつも枯渇状態。
原料である薬草の栽培は急がれ、調合を急かされていて大変だと聞いたことがあるくらい。
この農園も例外ではない。
きみは目的のお花の絵を見つけると、ぼくにも見せてきた。
「きれいな赤色ですね。深紅とも表現するんですって。すてきな響きです」
「そうだね。いい色」
「この花を香油にして卵白と使うんですよ」
「傷に効くの?」
「ええ」
「へぇ、こんなにきれいなお花が」
この花壇一面に咲いたら、きっと荘厳だしきれいな光景になるんだろう。
きみはそれを見て楽しんでみたいんだね。
ふと勅令を思い出す。
「あのね、きっともうすぐだよ」
「もうすぐ、ですか?」
「そうしたらお花を飾ったりゆっくり眺められると思うの。んふ、楽しみだね」
「え、えぇ、そうなればうれしいですね」
何のことだか分からないってお顔のきみ。でもすぐにそうなった花壇を思い浮かべて、色とりどりになるのだと指差してゆく。
香りが風に乗ってゆるやかにきみのこころを癒すだろうし、きみはそれを周りに教えて回るんだろうなぁ。
でもぼくはそれよりも、いま、きみと昼食を楽しみたい。
「ね、そろそろ行こ。お昼も使徒職でしょ? 休まないと心配」
「そうですね、お腹も空きました」
「今日は玉ねぎのタルトって言ってた。ぼく、すっごく楽しみ」
「一皿目のスープも楽しみです」
「えーだってあれ、野菜いっぱい入ってる」
「玉ねぎも野菜じゃないですか」
「甘くなるからいいの!」
農園に香るにおいはまだ土だけしかなくて、やっぱりそれはさみしいことなんだと、きみを見て思うの。
#花畑
「待ちなさい!」
「い、や」
「あッ、こら!」
ウィーン…、目の前でエレベーターのドアが閉まった。箱の中にその生物だけを閉じ込めて、エレベーターはさっさと昇ってゆく。
内心舌打ちをした。
二機しかないエレベーター。あれが乗っていない方は上階を下っている。エントランスに着いて私が乗ってからあれを追ったとしても、あれはすでに家の中だ。
まさか、あれの細腕に押し退けられるなんて。
機嫌が悪いのは態度に表れていた。現場に居合わせていたわけでも、今日一日の様子をすべて知っているわけでもない私に、その理由は分からない。
だが、あまりいい気はしなかった。
身体を動かしていないと焦りで押し潰されてしまう。それくらいにはこころが安寧を失っている。
愚断だとは分かっていたが、階段を使った。
……本当に、本当に、愚断だった。
玄関に着いたときは皮膚が湿っていたし、首筋は濡れて痒い。ここ最近、あまり走る機会のなかった身体はギシリと関節に熱が溜まって。
脱ぎ捨てられた靴は隅と隅に打ち捨てられていた。なぜそうなる。
かかとを揃えてやる。
廊下のはずれから雨のような音がしていた。
「…お前、何をしているんです」
「……おふろに、はいってる。あのねそれだけ」
「うそおっしゃい。着衣のままシャワーにも当たらないのに」
「あのね、うるさいだけならどっかいって」
バスルームの真ん中でうずくまるこれ。服はすっかりお湯を吸っていた。膝にひたいをつけて。
片手で持っているシャワーのノズルは天井を向いている。勢いのまま天井を濡らして、楕円形の水滴に集まりぼたぼたと降ってゆく。
雨にしては太っている水滴。
それを静かに被るその生物はくるりと私を見上げてきた。
いつものスマイルはない。
「ばかだね。エレベーターのほうがはやいに決まってる。後悔した?」
「いまのお前に言う必要はありません」
「……ばかだね。あのね、透けてるんだよ」
「馬鹿なのはお前のほうです」
「ばかなうえに口まである。あのね、きて。こないとだめ。いますぐ。となり。きて」
水はけのいい床だから、水溜まりはすぐに排水溝に吸われて消えてゆく。バスルームのドアを閉めたから部屋の熱気とともに湿気がぐんと上がった。
湿度でこの生物の輪郭がぼけている。
その身体はどこもかしこも薄っぺらいし、濡れているから余計にだ。
となりで同じように膝を曲げる。
持って。とシャワーを押しつけられて雨製造機にされた。大粒の水滴が当たる感触は割と重たい。台風の刺すような鋭さはなく、けれど普段の雨にしては随分質量がある。
降ってくる間にお湯は冷めて。
なんだかこの生物の体温のようだ。
人工的な空を定期的に掃除していてよかったと心底思う。
「あのね、水が目に入った。いたい」
「やめて浴室から出ればいいんです」
「…あのね、めずらしくいいこと言うね。でも、もうちょっとなんだよ」
くしくしと目をこする。力を入れて皮膚を引っ掻くから、そこに傷がついてゆく。
辞めさせようとも思ったが、いまだけは好きにさせることにした。
#空が泣く
「そっかぁ…だめなの」
「……お前の倫理観と常識は育てたつもりだったのですけれどね」
きしりと関節が鳴く。
「あのね、取り換えられるものとそうじゃないものがあるの」
「普通、すべて取り換えはできませんよ。無理やりに当てはめているだけで、元通りなど到底」
「あのね、活力剤とかあったらいいの」
「寿命というのはエネルギーだけの問題じゃありませんから。動かすための機能も衰えてゆくものです」
「あのね、高性能だかスペックが低いのか分かんないね」
テレビの中では親の腕に抱かれた幼い少女がゆっくりと衰えてゆく。
25時の番組にしても重たい。しかしこれは齧りついていた。まばたきも少なめに食い入って。私にはその熱量がよく分からない。
左手に持っていたリモコンが指示を放った。
ぷつん、と黒くなった画面。そこからまた電源が点けられる。数字のボタンが押されチャンネルが変わった。
ディープな教育番組。
ちょうど、これの興味を大いに刺激する真っ黒な真空管の話題だった。
100億年の寿命を持つ太陽。
折り返し地点に達したその質量はまだ健在で、核融合反応を続けていると、白衣姿の博士が説明してゆく。対して地球は持って8億年だとも。
しかし説明を聞いていればそれは生命が死に絶えるまでの時間らしく、どうやら地球そのものは塊りとして残るようだった。
「これもいのち?」
「擬人化でしょう。生命は存在するか消失したかで数えますけど、無機質は有るか無いかで分ける。太陽もそれ自体が脈打っているわけではなくて、水素の爆発で光っているのを活動しているとみなしているのでしょう」
「ふぅん。じゃあ、燃え尽きたってなに?」
この生物から生まれる疑問は際限がない。
思考のABCは脳内で済ませてしまうから脈絡も滅裂だ。
「人間のことを言ってます?」
「あのね、ことばは人間のためにあるんだよ」
ばかだね。
脳直と脊髄反射で喋るお前に言われたくない。と言ったところでこれは案外口が回る。
「活力を失った人のことを言うんでしょう」
「活力ってなに?」
「それは、人それぞれでしょうけれど。そうですね、例えばやりたいこととかでしょうか。お前も興味を持ってはやり尽くしてすぐに飽きるでしょう? そういうのを燃え尽きると表現しますね」
「あのね、すぐに分かっちゃうのがいけない。分かっちゃえばできる」
「嫌味な人」
実際、これは興味を持ったものを短時間でとことん突き詰めそのあとに放置する。それができるのだから、新たな興味対象を見つけるのもたやすい。
だからこうして生意気であっても生きている。
「じゃあ、にんげんって、ごはんたべて何か考えるたびに死んで生き返るんだね」
「は?」
「いのち使い切るまで着火して燃え尽きる。それってすっごくたいへん」
これが抱えた膝からは、ギシリ…と油が失われた音がした。このとき私が何を思ったかと問われれば、イカロスの翼と答えるでしょう。
#命が燃え尽きるまで
カリッと揚がったコロッケに箸を入れる。ジュワぁと肉汁があふれて口の中に唾液が広がった。衣はサクサク。中はジューシー。肉厚な肉の甘辛い味つけ。
最オブ高。
揚げたてアツアツを頬張って幸せに首をもたげる。ほぺったが落ちるなんて誰が言い出したんだろ。言い得て妙な言い回し。ふと、向かい合って座るきみが目に入った。
ぼくと同じようにコロッケを堪能してしあわせそうに目を細めて。箸が口許から離れてむぐむぐ。
その唇が油分でつやつや。
薄くもやわらかい感触をしているそこが、あまつさえ艷やかに色を主張していて。肉感的に動いているのが目に入っちゃったの。
やゔぁい……めっっっちゃ見ちゃう。
もうコロッケどころじゃない。
どうすんの。ただでさえ最近ヘンタイって思われてるのに…!
別のこと考えよ。
…………そういえば、リップクリームつけるとき。きみってばハンドクリームをちっちゃな容器に詰めて、指先にちょっとだけ載せてから唇に塗ってた。
スティック使わないの、って聞いたら。
ハンドクリームがたくさん余っていてリップクリームにもなると書いてあったので、って言ってた。
ゔぁ…っ、同じこと考えてるじゃん!
違うってば、違うじゃん!
頭抱えたい…。代わりに箸をぎゅっと握った。ぜんぜんごはん減らない。食欲が負けちゃってる…。
「お口に合いませんでしたか?」
顔を上げたらきみが不安そうなお顔でぼくを見てるの。そんなわけないの。とってもおいしい。って言いたいのに、ぼくってば節操なし!
喋るきみの唇ばかり見て、きみの言ってることがぜんぜん頭に入らない。
口の内側を噛んでなんとか意識をそらす。
「んーん、おいしい。ぼく、コロッケだいすき」
「よかった…!」
ゔぁあーーーっ、『よ』で口窄めないでッ!!
もう勘弁して!
#視線の先には
ぶくぶくと泡が吹雪のように顔をかすめて避けて。強化ガラス越しの視界を遮ったのも一瞬。
突如目の前にプレゼントされたのは、一面の青。
上から射す光が斑に泳いで、そのあたりを色とりどりの生物が優雅に生きている。陸に住まう人間が憧れをつくりだした映画みたいに幻を溶かし込んで存在する、奇妙な現実。
口を動かして発声しようとすれば、ぼぼぼぼっと空気の泡が弾けて消えた。言葉が上に上に昇って肝心のきみには届かない。
息が苦しくなってきた。
小さな酸素ボンベを口に咥えて。何時間も潜っていられないけれど、三〇分くらいなら。
それでもきっと足りない。
掴んでいたはずのきみの手がなくて泳ぎが得意じゃないぼくは空気と一緒に上に昇ってしまう。
下手なりに潜ろうとしてもなんだかすっごくみっともない。
「それじゃあダイビングの資格も取れそうにありませんね」
くすくす笑うきみがぼくの手を取って、きみの世界に引き戻してくれた。尾ひれがしっかりと流れを掴んで、水を得た魚――――まあ、その通りなんだけれど。
ぼくと同じ――ヒトと同じ造形をしたそのお顔はひどく楽しそう。あちこちぼくを連れ回してきみの世界を紹介してくれる。
「どうですか? 気に入ってくれましたか?」
「あぼぼぼ」
「ああ、それは外さないで。心配になってしまいますもの。そうだ、泳ぎを教えてあげます」
ぼくの両手を掴んだまま、海に寝転がるようにぼくの下で手を引っ張りながら背面泳ぎ。
あんよが上手、あんよが上手。
広大な海でぼくを導くきみになんだか……バブみを感じちゃう。
****
「待って、手を離さないで、ずっとそこにいて」
「わあ、熱烈」
「ばか言わないで下さい!」
板張りの床を濡らすきみがぎゃんと吠える。ガクガクと震える下半身にはいつものきれいな尾びれがなく、ヒトと同じ二股の脚が生えている。
シャツを一枚だけ着たきみの手を取って少しずつ後ろに下がってゆけば、ぺた…ぺた…とまるで下手にプログラミングされた機械みたいにぎこちなく脚を動かした。
いつもの優雅さも余裕もなく、下を向いて「うそでしょう!」「こんな棒ふたつで身体を支えられますか!」「これで移動するなんて天才ですよ!」口がとっても動く動く。
むーーっ! ってもどかしそうにしているきみが見れて、何だかとっても満足。
「ほら、リビングまで行かないとお寿司食べられないよ。階段もあるんだから」
「階段? アッ、もしかしてその段差ですか⁉ あれをこれで移動しろと⁉ 冗談でしょう!」
「大丈夫大丈夫、腕もあるよ」
「みっともない!」
ようやくリビングのチェアに腰を下ろしたきみ。バキュームかってくらいにお寿司が早々になくなっていった。
歩くの難しくなるよって言ったらお酒は控えたけれど。
それよりも気になる。
「よくヒトの脚になれたね」
「わたくし、ツテは多いと自負しております」
「……なんか、こう、声がなくなる的な対価はないの」
「? そんな物騒な」
あなたがくれたお酒を分けたらヒトの脚にしてくれましたよ、てのほほんと笑うきみ。海の中でどうやって飲むの、とは言わなかった。
#手を取り合って