ぶくぶくと泡が吹雪のように顔をかすめて避けて。強化ガラス越しの視界を遮ったのも一瞬。
突如目の前にプレゼントされたのは、一面の青。
上から射す光が斑に泳いで、そのあたりを色とりどりの生物が優雅に生きている。陸に住まう人間が憧れをつくりだした映画みたいに幻を溶かし込んで存在する、奇妙な現実。
口を動かして発声しようとすれば、ぼぼぼぼっと空気の泡が弾けて消えた。言葉が上に上に昇って肝心のきみには届かない。
息が苦しくなってきた。
小さな酸素ボンベを口に咥えて。何時間も潜っていられないけれど、三〇分くらいなら。
それでもきっと足りない。
掴んでいたはずのきみの手がなくて泳ぎが得意じゃないぼくは空気と一緒に上に昇ってしまう。
下手なりに潜ろうとしてもなんだかすっごくみっともない。
「それじゃあダイビングの資格も取れそうにありませんね」
くすくす笑うきみがぼくの手を取って、きみの世界に引き戻してくれた。尾ひれがしっかりと流れを掴んで、水を得た魚――――まあ、その通りなんだけれど。
ぼくと同じ――ヒトと同じ造形をしたそのお顔はひどく楽しそう。あちこちぼくを連れ回してきみの世界を紹介してくれる。
「どうですか? 気に入ってくれましたか?」
「あぼぼぼ」
「ああ、それは外さないで。心配になってしまいますもの。そうだ、泳ぎを教えてあげます」
ぼくの両手を掴んだまま、海に寝転がるようにぼくの下で手を引っ張りながら背面泳ぎ。
あんよが上手、あんよが上手。
広大な海でぼくを導くきみになんだか……バブみを感じちゃう。
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「待って、手を離さないで、ずっとそこにいて」
「わあ、熱烈」
「ばか言わないで下さい!」
板張りの床を濡らすきみがぎゃんと吠える。ガクガクと震える下半身にはいつものきれいな尾びれがなく、ヒトと同じ二股の脚が生えている。
シャツを一枚だけ着たきみの手を取って少しずつ後ろに下がってゆけば、ぺた…ぺた…とまるで下手にプログラミングされた機械みたいにぎこちなく脚を動かした。
いつもの優雅さも余裕もなく、下を向いて「うそでしょう!」「こんな棒ふたつで身体を支えられますか!」「これで移動するなんて天才ですよ!」口がとっても動く動く。
むーーっ! ってもどかしそうにしているきみが見れて、何だかとっても満足。
「ほら、リビングまで行かないとお寿司食べられないよ。階段もあるんだから」
「階段? アッ、もしかしてその段差ですか⁉ あれをこれで移動しろと⁉ 冗談でしょう!」
「大丈夫大丈夫、腕もあるよ」
「みっともない!」
ようやくリビングのチェアに腰を下ろしたきみ。バキュームかってくらいにお寿司が早々になくなっていった。
歩くの難しくなるよって言ったらお酒は控えたけれど。
それよりも気になる。
「よくヒトの脚になれたね」
「わたくし、ツテは多いと自負しております」
「……なんか、こう、声がなくなる的な対価はないの」
「? そんな物騒な」
あなたがくれたお酒を分けたらヒトの脚にしてくれましたよ、てのほほんと笑うきみ。海の中でどうやって飲むの、とは言わなかった。
#手を取り合って
7/15/2023, 2:47:39 AM