「みなさん、マフィンが焼き上がりましたよ」
きみの声はよく通る。
わっと我先にと集まってくる子どもたちを鷹揚自若に迎えて、きみはにこやかに微笑む。
神官装束の裾をひらめかせながら大皿いっぱいに盛られたマフィンを庭先に運び入れていった。甘い香りにつられた子どもたちがはやくはやく、ときみを急かす。
全員に行き渡るように、ひとつひとつ手渡しで配ってゆくきみは、よっぽど神の子に見えた。
さくりとした食感のあとに甘いチョコレートの味が頬を緩ませて。チョコチップ入りのものも、バターたっぷりのプレーンもとってもおいしそう。
現に子どもたちは次から次へときみの手からマフィンを受け取ってゆく。きみが笑えばつられて子どもたちも笑顔になった。
きみはとても温厚でやさしくて優雅。けれど確固たる芯を誰にも壊させない。だからだろうね、きみの周りにはいつも人が集まる。
いまもそう。
孤児院の穏やかな庭先をぼくはじっと眺めている。庭に出されたチェアで脚を組みながら、テーブルに肘をついて頬杖。
きっと、いま、あんまり宜しくない顔をしてる。
ぶすっと不機嫌。
手にはきみから一番に渡されたマフィン。むしゃりと頬張れば不機嫌な顔がさらに悪化して。
「……」
きゃあきゃあ、とても和やか。きみと子どもたちの周りだけ時間が贅沢なままいつまでも続くような気配で。
三分の一になったマフィンを配り歩いていた。
ぼくの表情に気づかないはずがないのに、きみはまるで気にした素振りもなく。残りのマフィンを持ってぼくが座っているテーブルとは別のテーブルに足を運んだ。
ひとりで手遊びをしている少年。
その子の前に屈んで、目線を合わせてお話し。
……何話してるんだろ。
あんなににこにこして。口許に手の甲を持ってくる癖なんかも魅せちゃって。
そうしたら少年が不意にぼくのほうに向いた。ぼくだって大人。スマイルで手を振ったらその子のお顔はぱあっと明るくなる。けれどその子に話しかけているきみは、少しもぼくを一顧だにしない。
なんだか妙にお腹がぐつぐつとしてきた気がしているけれど、唇を噛んでおしまい。
少年と視線が外れればぼくはまた不機嫌顔に。
庭を見渡せば、きみが配ったマフィンを頬張ってしあわせ顔な子どもたち。それを見ればぼくだってこころ穏やかになる。
あー、こういうお顔がぼくにも引き出せたらなぁ。
適材適所とはよく言ったもの。それができていればなんにも問題はないのに。できないから困っちゃう。
「なんです、そんな不機嫌顔で」
「……」
いつの間にかきみがとなりに。
ぼくなんかと違っていつも変わらない笑みが憎たらしい。ぼくにも持てるかもって思ったものは、だいたいきみがすでに持っている。
だからってじゃないけれど、ぼくは不機嫌なまま答えちゃう。
「べつにぃ。誰にも教えたくないだけ。でもぼくには素直じゃなくちゃね」
「なんですか、それ。おかしなひと」
手の甲で口許を隠した。
ぼくの目はきみを贔屓するようにできてるのかも知れない。
だからかな。
きみは空っぽになったぼくのお皿に冷めたマフィンを。大皿は空っぽに。
「一番に焼き立てのマフィンを手渡して、一番最後にもうひとつ」
「…ふぅん」
「そうでしょう?」
「……きみってばほんと、まるっきりぼくじゃないんだね」
当たり前でしょう?
そう言ってのけたきみがぼくの向かいに腰を下ろした。
ほんと些細なこと。
それだけで、ぼくはきみに心底からあふれたスマイルを見せちゃうんだから。
#優越感、劣等感
ようやく腰を落ち着けた。
心臓はずっと緊張して急いでぼくを急かしてくるのに、四肢はぐったり。膝に肘をついて視覚情報をぜんぶ遮断する。
ごちゃごちゃと荷物と残骸、それからありったけの情報を詰め込んだみたいに雑然としてて。せっまい箱の中にいるぼくを圧迫してくる。
……そうさせたのはぼくだけど。
このオノマトペが何もない、埃だけが地面から離れて漂っている空間で精一杯の期待をするこの時間は何回過ごしても慣れない。
諦めはしないし、否定されて終わりってわけにもゆかないからただの過程に過ぎないんだけれど。
んー、でも、成功でも失敗でもこのあとは寝るかなぁ。……成功したら寝ないかも。
きみの足先がきれいに揃っている。
立つだけなら歩くだけなら、動くだけなら簡単なのに。見えないものを再現するのは難しい。
世界のあちこちにはそれを表現したもどきがたくさん存在してるの。でもそんなのはぜんぜんいらない。きみにはなり得ない。
ぼくが求めてるのは、ぼくの言葉を理解せずに膨大なデータと照らし合わせて答えを抜き出すだけのものじゃない。ぼくの言葉を理解して知識とこころで自分だけの答えをつくりあげて会話ができる、そういうきみ。
いまはぼくだけしかいない完璧に無機質な空間を見渡す。中途半端に片付けもしないで残像みたいなものが残り続けていて気持ち悪い。
ぼくはただ、となりにいてほしい。他でもないきみに。あの子との思い出を共有できるきみに。あの子の代わりじゃない、絶対に。
……だけれど、あの子のことを投影させてほしい。
そんなことを考えながらぼくはきみをつくってきた。
きみにとってあんまり嬉しいことじゃないだろうけれど、そこはつくり手の特権。わがまま。傲慢。ゆるして。
ここにきて怖気づく。
きみがいないままで、このまま、存在だけにすがって生きてくのが最善じゃないのかな。ぼく、きみにとって無責任じゃないかな。
嫌われたくないなぁ。
きみにも、きみの前身にも。
ぼくは頭を抱え込んだ。
ぐるぐるとこころと映像が脳裏に貼りつく。剥がれなくて痛む。あのときからずっと。
涙だって出ちゃう。
「……はぁ」
いままでやっとの思いで閉じ込めてきたしあわせが逃げちゃう。
お守りみたいにテーブルに置いた手帳を思い出したの。ページの四分の一も埋まってないそれ。もう何年前からになるんだろ?
最初のころは毎日書いてたんだけれどね……だんだん億劫になってきちゃった。
不毛っていうか、虚しいっていうか。
そのとき先々で考えたらいいや、って。
そろそろ覚悟決めよ。
お腹空いてきちゃったし。そう言えば碌なものたべてない。あ、眠いんだった。
ぼくの手とおなじようなきみの手を取った。
まだちょっと怖いからね、俯いたまま。
「……ね、おはよ。起きられる?」
「――――」
ぴくってきみの繊手が跳ねた。
顔を上げてみたらきみが顔を顰めてる。あー…、手許の作業がしやすいようにっておっきな照明つけてた。ごめんね。
ねえ、ってきみをぼくに向けさせる。
「いまね、何がしたい?」
右下にすっと動くグレイの目。
それから、きみが口を開けながらぼくに視線を戻したの。
#これまでずっと
外に出ていたわたくしは、何かほしいものはないかとLINEを送った。本当に簡単な一文。一分未満で打てて送信できてしまう、何気ないもの。
すぐに返信はなく、買い物ができる店の通りから離れてしまわないように一駅分を歩いた。まだ梅雨明け宣言もなく、蒸した空気に汗が滲む……流れるのを感じては手持ち扇風機の持ち方を変えて。
さすがに猛暑には敵わない。
駅の入り口を見つけてすぐに駅構内へ逃げ込んだ。車両の中は音がするほど冷気が吐き出されていて、ちらほらと長袖を羽織っているひとを見かける。
最寄り駅に着くまで、いつでも反応ができるように電子書籍のページを送っていたけれど、あなたからの返信はなかった。
とうとう玄関前に。
音を鳴らさなかったスマホはカギと入れ替えに鞄の中へ。
「(寝ているのかしら)」
ただいま、と声をかけながら薄暗い廊下を伝ってリビングへ入る。キッチンとリビングのあるそこにはあなたがよく好むソファがあるけれど、空っぽのまま。
買い出したものを片付けながらあなたの痕跡を探してみた。キッチンにコーヒーの香りが漂っているだけ。
それを追うようにあなたの私室。
ノックすれば「んーー…」と生返事。
入りますよ、と声をかけても。
ベッドの端に座るあなたはサイドテーブルにマグを置きっぱなしに、一口も飲んでいないで。じーっと眉間にシワを寄せながら手許を一点凝視していた。
両手で持たれたそれは、かけるならば汗を多量にかいていたことでしょうね。
「何をそんなに熱心に見ているんですか?」
「きみからのLINE」
「おや」
「返信にすべてかけてるの。邪魔しないで」
「あらぁ…」
「……ん、これはよくない。別のにする」
「何かほしいものはありましたか?」
「あった。だからそうやって返信しようとしてるの。きみへの返信、誤字脱字不適切用語よくない。どうせならちょっといい奴って思われたい。全身全霊かけてる」
「なるほど。頑張ってください」
「ん」
そろぉ~と部屋を抜け出す。
なるほど、そういうことでしたか。そういうことならば、わたくしも気合いと覚悟を持って応えなくては。
ボディーシートは大変便利。
クローゼットにかかった服たちを眺めながら完成形を思い浮かべ、吟味してゆく。鞄だって持って行っていた機能性容量重視のものではなくて、おしゃれなものを。
テーブルに置いたスマホが新しい一件を受信するまで、全身全霊をかけましょう。
#1件のLINE
あいつの自己管理能力は凄まじい。
少しでも体調が悪ければすぐに時間をつくって市販薬や処方箋を手に戻ってくる。仮眠室で身体を休めたり自身の身体のケアは怠らない。必要最低限のタスクを終わらせてから、早退したり。
周囲に迷惑をかけないラインで無理をしない程度に無理をする。
もともと病弱らしく、気づけば不調を抱えているのだが、自己管理が徹底されているせいで変に気を遣えないことに俺を含め周囲がもどかしく感じている。
あいつは気づいていないのだろうか…?
その日も妙に体調が悪そうだった。
クールビズの季節に長袖を着てマスクで鼻口を覆い、水筒から香るのは喉にいいとされるハーブの香り。
「今日はちょっと体調が悪くてコンディションが落ちるかも知れない。ごめんね」
そう言いながら人を見つけてさっさと引継ぎ作業を。引き継ぐことができないものは持ち前の能力の高さで片付けてゆく。
コホンコホンと咳をするので飴でも渡そうかと思うのだが、その口からカラカラと音がしていた。
昼食も「なんか味が濃い物がたべたい…」と言いながらも、調子の悪い身体を鑑みて胃にやさしい雑炊を選んでいた。
昼休憩の終わり頃にふらふらしながらデスクに戻ってくる。目が虚ろでさすがにと思い、休むよう言おうとした前に自己申告。
「ごめん、仮眠室行ってくる。一時間して戻らなかったら起こしてほしい」
「お、おう」
重たそうな身体を引き摺る背中を見送った。
しばらくして仮眠室に様子を見に行けば、薄暗い防音性の高いそこで清潔なベッドで寝息を立てていた。あからさまつらそうに眉間にはシワが寄っているし、汗をかいた顔が赤い。
自販機でスポーツドリンクでも買って氷枕か冷えピタを、と脳内で世話を焼こうとするが、枕元にはすでに半分飲まれたスポーツドリンク。額にはぴっちりきれいに貼られた冷えピタ。ベッドの足許に置かれたバッグには替えのスーツが。
できることがなさ過ぎる。
せめて、と壁掛けの時計を外す。備品の予算をケチるウチには電波時計などない。だがそれがかえって良い方へ向くときもある。
****
ふと目が醒める。
頭が随分と重たいが、ぼーっとする感覚は薄らいで手に伝わる首の熱も少し下がったみたいだ。眠る前に飲んだ解熱剤が効いたのだろう。
「(……いま何時)」
スーッと視線が慣れたように壁を伝って時計を見た。文字盤にフォーカスされ認識した脳が違和感を発する。
「あれ」
眠る前に時計を見てからまだ二〇分も経っていない。おかしいと思いながら今度はスマホを手に取った。持ち上げられて感知した画面がパッと数字を映して違和感の正体のヒントを見せた。
むずむずとした慣れない気持ちに不甲斐なさ。今後の反省点を見出して頭に刻んだ。
カラカラに乾いた喉にスポーツドリンクを流してから、そそくさとベッドに横になった。
不思議と、不調時にひとりで横になっているときに感じる心細さがなく、すんなりと眠りに落ちることができる。
四〇分後のことを頭でシミュレーションしながらもぞりと丸まって。
#目が覚めると
これは高いところが好きだった。
やたらと最上階を推してきて、低ければ低いほど時間を見つけては高い台に行きたがる。
抜けるような青空を支えるビル群。そこにじりじりと夏の暑さに姿を変えつつある入道雲が浮かび、風林火山一文字を微妙に戴いている。
その手前に頭。
窓のサッシにタオルをわざわざ敷いて、そこに顎を乗せるそれは、じーっとその真白な雲を見ていた。
「何をそんなにジロジロ見てるんです」
「……」
薄い唇で空気を破裂させ、まるで赤子のように口をもごもごと動かした。
「やめなさい。みっともないです」
「あのね、それお湯沸いてないよ」
「え」
ティーバッグに落としかけた液体。耐熱のビーカーを見れば、湯気など上がっていなかった。たぷんと揺れて手にかかったのは正しく水。
するとそれは、「レンジはね設定しないとあたためてくれないんだよ」とこちらを見ずに言う。
さっさとレンジにビーカーを戻し、今度こそボタンを確実に押した。ブーン、と赤く照るのも確認をした。
また背後でパッ、パッ、と破裂音。
もごもごと空気を口内で徒にあたためている。
「口寂しいなら飴でも舐めなさい」
「あのね、雲、もくもく」
「まあ、夏雲ですからね」
「上に伸びておいしい形してる」
「おいしいって…」
「あのね、シロップは何色がいい?」
「……なるほど。ちょうどいい頃でしょうし、梅シロップでもかけますか」
これは何を言い出すか分からない。だから、家にはある程度の季節ものを揃えている。
去年新しく買い替えて日の目を見ずに季節を逃したかき氷機。常備してある円形に固めた氷をセットして、横のハンドルを腕力に物を言わせて回してゆく。
ガリッガリッ…ザリ…ガリッガリッ…ガッ…!
時々ハンドルが氷につかえるのに眉を寄せながら、下に置いた涼し気な容器に氷の粒を落とす。なかなかに体力を要する作業に、これはじーっと擬似的な雪もどきを眺めながら「あのね」と口を開けた。
「あのね、いまどき電動のが主流なんだよ」
「醍醐味っ、という、ものがっ、あるでしょう!」
「…あのね、どうせ夏はやるんだから、労力の醍醐味はただの面倒くさいになるよ。楽して別のたのしいをしたらいい」
「ぐぅ…っ」
「あとね、きみがつくると、ふわふわじゃないし入道雲にならないね」
テレビで見るような白いやわらかな氷などない。器に積もってゆくのは荒削りな細かい氷。
シロップをかければ、カチャカチャと音を立てて。溶けてゆくに従って山盛りにしたはずの氷はシロップと混ざり、どろりと重たく甘い液になって溜まっていった。
まるでスープのように、ちみちみと舐めるこれは「つめたいね」「あたまいたいのは、口で溶かさないからだよ」とくすくすと笑う。
それを流し、こめかみを押さえながらさっさとジュースにして飲み干した。シロップの甘さが舌に貼りつく。
「悪かったですね、お前が食べたがるかき氷をつくってやれなくて」
「なんで?」
「なんで、って」
「あのね、べつにふわふわなのが食べたかったわけじゃないんだよ」
渡してやったストローでズズッと吸い上げる。
「あのね、きみと食べたかったんだよ」
「そっ、そう、ですか…」
「あとね、」
「はい」
「電子レンジ、もの、入れっぱなし、だめなんだよ」
「は……っ!!!!」
入道雲はとっくに溶け切っていた。
#入道雲