「待ちなさい!」
「い、や」
「あッ、こら!」
ウィーン…、目の前でエレベーターのドアが閉まった。箱の中にその生物だけを閉じ込めて、エレベーターはさっさと昇ってゆく。
内心舌打ちをした。
二機しかないエレベーター。あれが乗っていない方は上階を下っている。エントランスに着いて私が乗ってからあれを追ったとしても、あれはすでに家の中だ。
まさか、あれの細腕に押し退けられるなんて。
機嫌が悪いのは態度に表れていた。現場に居合わせていたわけでも、今日一日の様子をすべて知っているわけでもない私に、その理由は分からない。
だが、あまりいい気はしなかった。
身体を動かしていないと焦りで押し潰されてしまう。それくらいにはこころが安寧を失っている。
愚断だとは分かっていたが、階段を使った。
……本当に、本当に、愚断だった。
玄関に着いたときは皮膚が湿っていたし、首筋は濡れて痒い。ここ最近、あまり走る機会のなかった身体はギシリと関節に熱が溜まって。
脱ぎ捨てられた靴は隅と隅に打ち捨てられていた。なぜそうなる。
かかとを揃えてやる。
廊下のはずれから雨のような音がしていた。
「…お前、何をしているんです」
「……おふろに、はいってる。あのねそれだけ」
「うそおっしゃい。着衣のままシャワーにも当たらないのに」
「あのね、うるさいだけならどっかいって」
バスルームの真ん中でうずくまるこれ。服はすっかりお湯を吸っていた。膝にひたいをつけて。
片手で持っているシャワーのノズルは天井を向いている。勢いのまま天井を濡らして、楕円形の水滴に集まりぼたぼたと降ってゆく。
雨にしては太っている水滴。
それを静かに被るその生物はくるりと私を見上げてきた。
いつものスマイルはない。
「ばかだね。エレベーターのほうがはやいに決まってる。後悔した?」
「いまのお前に言う必要はありません」
「……ばかだね。あのね、透けてるんだよ」
「馬鹿なのはお前のほうです」
「ばかなうえに口まである。あのね、きて。こないとだめ。いますぐ。となり。きて」
水はけのいい床だから、水溜まりはすぐに排水溝に吸われて消えてゆく。バスルームのドアを閉めたから部屋の熱気とともに湿気がぐんと上がった。
湿度でこの生物の輪郭がぼけている。
その身体はどこもかしこも薄っぺらいし、濡れているから余計にだ。
となりで同じように膝を曲げる。
持って。とシャワーを押しつけられて雨製造機にされた。大粒の水滴が当たる感触は割と重たい。台風の刺すような鋭さはなく、けれど普段の雨にしては随分質量がある。
降ってくる間にお湯は冷めて。
なんだかこの生物の体温のようだ。
人工的な空を定期的に掃除していてよかったと心底思う。
「あのね、水が目に入った。いたい」
「やめて浴室から出ればいいんです」
「…あのね、めずらしくいいこと言うね。でも、もうちょっとなんだよ」
くしくしと目をこする。力を入れて皮膚を引っ掻くから、そこに傷がついてゆく。
辞めさせようとも思ったが、いまだけは好きにさせることにした。
#空が泣く
9/17/2023, 5:22:03 AM