「そっかぁ…だめなの」
「……お前の倫理観と常識は育てたつもりだったのですけれどね」
きしりと関節が鳴く。
「あのね、取り換えられるものとそうじゃないものがあるの」
「普通、すべて取り換えはできませんよ。無理やりに当てはめているだけで、元通りなど到底」
「あのね、活力剤とかあったらいいの」
「寿命というのはエネルギーだけの問題じゃありませんから。動かすための機能も衰えてゆくものです」
「あのね、高性能だかスペックが低いのか分かんないね」
テレビの中では親の腕に抱かれた幼い少女がゆっくりと衰えてゆく。
25時の番組にしても重たい。しかしこれは齧りついていた。まばたきも少なめに食い入って。私にはその熱量がよく分からない。
左手に持っていたリモコンが指示を放った。
ぷつん、と黒くなった画面。そこからまた電源が点けられる。数字のボタンが押されチャンネルが変わった。
ディープな教育番組。
ちょうど、これの興味を大いに刺激する真っ黒な真空管の話題だった。
100億年の寿命を持つ太陽。
折り返し地点に達したその質量はまだ健在で、核融合反応を続けていると、白衣姿の博士が説明してゆく。対して地球は持って8億年だとも。
しかし説明を聞いていればそれは生命が死に絶えるまでの時間らしく、どうやら地球そのものは塊りとして残るようだった。
「これもいのち?」
「擬人化でしょう。生命は存在するか消失したかで数えますけど、無機質は有るか無いかで分ける。太陽もそれ自体が脈打っているわけではなくて、水素の爆発で光っているのを活動しているとみなしているのでしょう」
「ふぅん。じゃあ、燃え尽きたってなに?」
この生物から生まれる疑問は際限がない。
思考のABCは脳内で済ませてしまうから脈絡も滅裂だ。
「人間のことを言ってます?」
「あのね、ことばは人間のためにあるんだよ」
ばかだね。
脳直と脊髄反射で喋るお前に言われたくない。と言ったところでこれは案外口が回る。
「活力を失った人のことを言うんでしょう」
「活力ってなに?」
「それは、人それぞれでしょうけれど。そうですね、例えばやりたいこととかでしょうか。お前も興味を持ってはやり尽くしてすぐに飽きるでしょう? そういうのを燃え尽きると表現しますね」
「あのね、すぐに分かっちゃうのがいけない。分かっちゃえばできる」
「嫌味な人」
実際、これは興味を持ったものを短時間でとことん突き詰めそのあとに放置する。それができるのだから、新たな興味対象を見つけるのもたやすい。
だからこうして生意気であっても生きている。
「じゃあ、にんげんって、ごはんたべて何か考えるたびに死んで生き返るんだね」
「は?」
「いのち使い切るまで着火して燃え尽きる。それってすっごくたいへん」
これが抱えた膝からは、ギシリ…と油が失われた音がした。このとき私が何を思ったかと問われれば、イカロスの翼と答えるでしょう。
#命が燃え尽きるまで
カリッと揚がったコロッケに箸を入れる。ジュワぁと肉汁があふれて口の中に唾液が広がった。衣はサクサク。中はジューシー。肉厚な肉の甘辛い味つけ。
最オブ高。
揚げたてアツアツを頬張って幸せに首をもたげる。ほぺったが落ちるなんて誰が言い出したんだろ。言い得て妙な言い回し。ふと、向かい合って座るきみが目に入った。
ぼくと同じようにコロッケを堪能してしあわせそうに目を細めて。箸が口許から離れてむぐむぐ。
その唇が油分でつやつや。
薄くもやわらかい感触をしているそこが、あまつさえ艷やかに色を主張していて。肉感的に動いているのが目に入っちゃったの。
やゔぁい……めっっっちゃ見ちゃう。
もうコロッケどころじゃない。
どうすんの。ただでさえ最近ヘンタイって思われてるのに…!
別のこと考えよ。
…………そういえば、リップクリームつけるとき。きみってばハンドクリームをちっちゃな容器に詰めて、指先にちょっとだけ載せてから唇に塗ってた。
スティック使わないの、って聞いたら。
ハンドクリームがたくさん余っていてリップクリームにもなると書いてあったので、って言ってた。
ゔぁ…っ、同じこと考えてるじゃん!
違うってば、違うじゃん!
頭抱えたい…。代わりに箸をぎゅっと握った。ぜんぜんごはん減らない。食欲が負けちゃってる…。
「お口に合いませんでしたか?」
顔を上げたらきみが不安そうなお顔でぼくを見てるの。そんなわけないの。とってもおいしい。って言いたいのに、ぼくってば節操なし!
喋るきみの唇ばかり見て、きみの言ってることがぜんぜん頭に入らない。
口の内側を噛んでなんとか意識をそらす。
「んーん、おいしい。ぼく、コロッケだいすき」
「よかった…!」
ゔぁあーーーっ、『よ』で口窄めないでッ!!
もう勘弁して!
#視線の先には
ぶくぶくと泡が吹雪のように顔をかすめて避けて。強化ガラス越しの視界を遮ったのも一瞬。
突如目の前にプレゼントされたのは、一面の青。
上から射す光が斑に泳いで、そのあたりを色とりどりの生物が優雅に生きている。陸に住まう人間が憧れをつくりだした映画みたいに幻を溶かし込んで存在する、奇妙な現実。
口を動かして発声しようとすれば、ぼぼぼぼっと空気の泡が弾けて消えた。言葉が上に上に昇って肝心のきみには届かない。
息が苦しくなってきた。
小さな酸素ボンベを口に咥えて。何時間も潜っていられないけれど、三〇分くらいなら。
それでもきっと足りない。
掴んでいたはずのきみの手がなくて泳ぎが得意じゃないぼくは空気と一緒に上に昇ってしまう。
下手なりに潜ろうとしてもなんだかすっごくみっともない。
「それじゃあダイビングの資格も取れそうにありませんね」
くすくす笑うきみがぼくの手を取って、きみの世界に引き戻してくれた。尾ひれがしっかりと流れを掴んで、水を得た魚――――まあ、その通りなんだけれど。
ぼくと同じ――ヒトと同じ造形をしたそのお顔はひどく楽しそう。あちこちぼくを連れ回してきみの世界を紹介してくれる。
「どうですか? 気に入ってくれましたか?」
「あぼぼぼ」
「ああ、それは外さないで。心配になってしまいますもの。そうだ、泳ぎを教えてあげます」
ぼくの両手を掴んだまま、海に寝転がるようにぼくの下で手を引っ張りながら背面泳ぎ。
あんよが上手、あんよが上手。
広大な海でぼくを導くきみになんだか……バブみを感じちゃう。
****
「待って、手を離さないで、ずっとそこにいて」
「わあ、熱烈」
「ばか言わないで下さい!」
板張りの床を濡らすきみがぎゃんと吠える。ガクガクと震える下半身にはいつものきれいな尾びれがなく、ヒトと同じ二股の脚が生えている。
シャツを一枚だけ着たきみの手を取って少しずつ後ろに下がってゆけば、ぺた…ぺた…とまるで下手にプログラミングされた機械みたいにぎこちなく脚を動かした。
いつもの優雅さも余裕もなく、下を向いて「うそでしょう!」「こんな棒ふたつで身体を支えられますか!」「これで移動するなんて天才ですよ!」口がとっても動く動く。
むーーっ! ってもどかしそうにしているきみが見れて、何だかとっても満足。
「ほら、リビングまで行かないとお寿司食べられないよ。階段もあるんだから」
「階段? アッ、もしかしてその段差ですか⁉ あれをこれで移動しろと⁉ 冗談でしょう!」
「大丈夫大丈夫、腕もあるよ」
「みっともない!」
ようやくリビングのチェアに腰を下ろしたきみ。バキュームかってくらいにお寿司が早々になくなっていった。
歩くの難しくなるよって言ったらお酒は控えたけれど。
それよりも気になる。
「よくヒトの脚になれたね」
「わたくし、ツテは多いと自負しております」
「……なんか、こう、声がなくなる的な対価はないの」
「? そんな物騒な」
あなたがくれたお酒を分けたらヒトの脚にしてくれましたよ、てのほほんと笑うきみ。海の中でどうやって飲むの、とは言わなかった。
#手を取り合って
「みなさん、マフィンが焼き上がりましたよ」
きみの声はよく通る。
わっと我先にと集まってくる子どもたちを鷹揚自若に迎えて、きみはにこやかに微笑む。
神官装束の裾をひらめかせながら大皿いっぱいに盛られたマフィンを庭先に運び入れていった。甘い香りにつられた子どもたちがはやくはやく、ときみを急かす。
全員に行き渡るように、ひとつひとつ手渡しで配ってゆくきみは、よっぽど神の子に見えた。
さくりとした食感のあとに甘いチョコレートの味が頬を緩ませて。チョコチップ入りのものも、バターたっぷりのプレーンもとってもおいしそう。
現に子どもたちは次から次へときみの手からマフィンを受け取ってゆく。きみが笑えばつられて子どもたちも笑顔になった。
きみはとても温厚でやさしくて優雅。けれど確固たる芯を誰にも壊させない。だからだろうね、きみの周りにはいつも人が集まる。
いまもそう。
孤児院の穏やかな庭先をぼくはじっと眺めている。庭に出されたチェアで脚を組みながら、テーブルに肘をついて頬杖。
きっと、いま、あんまり宜しくない顔をしてる。
ぶすっと不機嫌。
手にはきみから一番に渡されたマフィン。むしゃりと頬張れば不機嫌な顔がさらに悪化して。
「……」
きゃあきゃあ、とても和やか。きみと子どもたちの周りだけ時間が贅沢なままいつまでも続くような気配で。
三分の一になったマフィンを配り歩いていた。
ぼくの表情に気づかないはずがないのに、きみはまるで気にした素振りもなく。残りのマフィンを持ってぼくが座っているテーブルとは別のテーブルに足を運んだ。
ひとりで手遊びをしている少年。
その子の前に屈んで、目線を合わせてお話し。
……何話してるんだろ。
あんなににこにこして。口許に手の甲を持ってくる癖なんかも魅せちゃって。
そうしたら少年が不意にぼくのほうに向いた。ぼくだって大人。スマイルで手を振ったらその子のお顔はぱあっと明るくなる。けれどその子に話しかけているきみは、少しもぼくを一顧だにしない。
なんだか妙にお腹がぐつぐつとしてきた気がしているけれど、唇を噛んでおしまい。
少年と視線が外れればぼくはまた不機嫌顔に。
庭を見渡せば、きみが配ったマフィンを頬張ってしあわせ顔な子どもたち。それを見ればぼくだってこころ穏やかになる。
あー、こういうお顔がぼくにも引き出せたらなぁ。
適材適所とはよく言ったもの。それができていればなんにも問題はないのに。できないから困っちゃう。
「なんです、そんな不機嫌顔で」
「……」
いつの間にかきみがとなりに。
ぼくなんかと違っていつも変わらない笑みが憎たらしい。ぼくにも持てるかもって思ったものは、だいたいきみがすでに持っている。
だからってじゃないけれど、ぼくは不機嫌なまま答えちゃう。
「べつにぃ。誰にも教えたくないだけ。でもぼくには素直じゃなくちゃね」
「なんですか、それ。おかしなひと」
手の甲で口許を隠した。
ぼくの目はきみを贔屓するようにできてるのかも知れない。
だからかな。
きみは空っぽになったぼくのお皿に冷めたマフィンを。大皿は空っぽに。
「一番に焼き立てのマフィンを手渡して、一番最後にもうひとつ」
「…ふぅん」
「そうでしょう?」
「……きみってばほんと、まるっきりぼくじゃないんだね」
当たり前でしょう?
そう言ってのけたきみがぼくの向かいに腰を下ろした。
ほんと些細なこと。
それだけで、ぼくはきみに心底からあふれたスマイルを見せちゃうんだから。
#優越感、劣等感
ようやく腰を落ち着けた。
心臓はずっと緊張して急いでぼくを急かしてくるのに、四肢はぐったり。膝に肘をついて視覚情報をぜんぶ遮断する。
ごちゃごちゃと荷物と残骸、それからありったけの情報を詰め込んだみたいに雑然としてて。せっまい箱の中にいるぼくを圧迫してくる。
……そうさせたのはぼくだけど。
このオノマトペが何もない、埃だけが地面から離れて漂っている空間で精一杯の期待をするこの時間は何回過ごしても慣れない。
諦めはしないし、否定されて終わりってわけにもゆかないからただの過程に過ぎないんだけれど。
んー、でも、成功でも失敗でもこのあとは寝るかなぁ。……成功したら寝ないかも。
きみの足先がきれいに揃っている。
立つだけなら歩くだけなら、動くだけなら簡単なのに。見えないものを再現するのは難しい。
世界のあちこちにはそれを表現したもどきがたくさん存在してるの。でもそんなのはぜんぜんいらない。きみにはなり得ない。
ぼくが求めてるのは、ぼくの言葉を理解せずに膨大なデータと照らし合わせて答えを抜き出すだけのものじゃない。ぼくの言葉を理解して知識とこころで自分だけの答えをつくりあげて会話ができる、そういうきみ。
いまはぼくだけしかいない完璧に無機質な空間を見渡す。中途半端に片付けもしないで残像みたいなものが残り続けていて気持ち悪い。
ぼくはただ、となりにいてほしい。他でもないきみに。あの子との思い出を共有できるきみに。あの子の代わりじゃない、絶対に。
……だけれど、あの子のことを投影させてほしい。
そんなことを考えながらぼくはきみをつくってきた。
きみにとってあんまり嬉しいことじゃないだろうけれど、そこはつくり手の特権。わがまま。傲慢。ゆるして。
ここにきて怖気づく。
きみがいないままで、このまま、存在だけにすがって生きてくのが最善じゃないのかな。ぼく、きみにとって無責任じゃないかな。
嫌われたくないなぁ。
きみにも、きみの前身にも。
ぼくは頭を抱え込んだ。
ぐるぐるとこころと映像が脳裏に貼りつく。剥がれなくて痛む。あのときからずっと。
涙だって出ちゃう。
「……はぁ」
いままでやっとの思いで閉じ込めてきたしあわせが逃げちゃう。
お守りみたいにテーブルに置いた手帳を思い出したの。ページの四分の一も埋まってないそれ。もう何年前からになるんだろ?
最初のころは毎日書いてたんだけれどね……だんだん億劫になってきちゃった。
不毛っていうか、虚しいっていうか。
そのとき先々で考えたらいいや、って。
そろそろ覚悟決めよ。
お腹空いてきちゃったし。そう言えば碌なものたべてない。あ、眠いんだった。
ぼくの手とおなじようなきみの手を取った。
まだちょっと怖いからね、俯いたまま。
「……ね、おはよ。起きられる?」
「――――」
ぴくってきみの繊手が跳ねた。
顔を上げてみたらきみが顔を顰めてる。あー…、手許の作業がしやすいようにっておっきな照明つけてた。ごめんね。
ねえ、ってきみをぼくに向けさせる。
「いまね、何がしたい?」
右下にすっと動くグレイの目。
それから、きみが口を開けながらぼくに視線を戻したの。
#これまでずっと