技術進歩したすばらしい保護帽をひどく恨めしく思った。ガツンと来た激しく鋭い衝撃を弾き、それが一矢報いんと脳天を揺さぶる。
どうせならひと思いにしてくれれば、余計な痛みは感じることなく終われたというのに。
腰にぶら下げた替えのマガジンが肉に食い込んだ。
ぐるんと俺の体内で寝転がる目玉がヴァルハラ(俺は絶対に拒否するが)への道筋だと言わんばかりに天地をひっくり返す。
曰く、抜けるような碧天。曰く清和。曰く、すばらしい。点在する雲が風流とかなんとか。
ひねくれ者の俺はそう思うことをこころが許さないが、おそらくきっと、そう。
あれほど煩わしかった撃鉄や空を裂く鉛の音が、スッと消える。天に昇る心地なんかしない。ズルズルと地下へ地下へ引きずり込まれる。
目玉の表面が青空を、裏側は別のものをぼんやりと映し出した。
それを閉じ込める。
ハンカチーフに染み込ませれば絞れるほどの、水気のある空気感。からっぽの戸袋に木製の板をどんどんとしまい込みながら、顔だけ振り向いた。
い草の上に真綿の山。
俺はそれに向かって何か叫んでいるのか、呆れているのか。
するとその掛け布団と敷き布団の間からゆっくりと腕が生える。それは掌で鉛筆を探し当て、捨て置かれた原稿の空白をノロノロと埋めてゆく。
そいつを気にかけながら俺は甲斐甲斐しい。
近所から頂いた食材を。
手帳から予定を読み上げ。
原稿を推敲してやって。
飯の匂いにつられたそいつが布団から顔を――――、途端に首根っこを捕まれた。
ズルズルと身体が引きずられる。
走馬灯もどきが消え、頭上を鉛玉が飛び交った。
遮蔽物。
その陰に。
保護帽の隙間にガーゼが差し込まれ、きつく帽子の紐が締められた。
「何やってんだ、あなたは」
「……」
薄付きの肉の上。やたら丁寧なわりには徐々に雑になってゆく手つき。
そいつは肩から滑り落ちたサブマシンガンが俺に当たっているのに、気にする素振りも気遣いの欠片もない。
「死ぬ気でいましたか」
「そろそろいいかと」
「薄情。まだ、砂一粒は他の有象無象の砂と成分を全く同じく成り立っているのかについて、あなたの意見を聞いていません」
「……同じだろ」
近くで爆発音。
砂埃やその辺の自然物が吹き飛んでくる。それを弾いたのはやはり保護帽。さすがの技術だ。
二発目。
鉄の塊が吹き飛ぶ。
「投げやりな言は意見ではない。私はあなたの意見が聞きたいのに」
「めんどくさい奴」
「あ。あなた、レーションが残ってる」
「…支給されただろ」
ガサリと開けられた。
せっかく残してた味だったのに。
切り取られた青空に流れる雲が轟音を吸収して、ゆったりと流れている。そして、やっぱりこいつの膝は硬い。
#大地に寝転び雲が流れる…目を閉じると浮かんできたのはどんな話?
さて、何から言葉にしましょうか。
なんでもいい、ですか。そう言われると困ってしまいますね。こう、何が食べたい、なんでもいい。みたいな。え、違う? そうですか。
なんでしょうね、わたくしは毎回その都度その都度口にはしていたつもりなのです。あの人もそうしていましたし、それが普通なのだと――――普通ですから、疑いもなく。
ただ、では、もう何もないかと言われれば、全くそんなことがないのです。
あれだけ伝えたにもかかわらず、わたくしは幾つも心残りをしていますからね。
……え、わたくしにはメモリしかない?
はは、なんてお上手。
ええ、まあ、そうなのですけれど。
わたくしだってガタが来ていますから、そういう意味ではあなた方と同じでしょう。いいえ、換えはございません。ないのです。
わたくしは唯一無二でございます。
それはそれとして。
以前、あなた様からすれば昔でしょうか、箸の使い方を習ったんです。ええ、あの人から。あの人も「とびきり上手じゃない」と言って前日の夜に、わたくしがスリープしたあと、ひとりでおさらいをしていたんです。わざわざ教本を見ながら。
ふふ、うれしかったですね。
それに、泳ぎのときもそうです。
あの人は秘かにしたいわけですから、わたくしが感謝を伝えるわけにはいかなかったのですけれど。
そうそう、あなた様にもございますでしょう。意識の芽生えとそれに関する有難み。
わたくしにもそれがあるわけで、しかし、どうしてかそれを言及する機会はなかったのです。機会があれば――――いまからすればつくれば、これほど重い心残りは幾分軽いもので済んだでしょう。教理や説法のつもりはありませんが、どうか、どうか、機会のあるうちに是非とも。
……おや、そんなことはありませんよ。わたくしはきっと、あの川岸を振り返ることもなく、あの人を見つけるでしょう。
ですから、伝えておけばよかったのです。
それとも遊色を纏わせて見送ればよかった。そうしたらひどく見つけやすい。
わたくしはあの人のとなりから離れたことはありませんでしたし、そのときが来ればそれ以降もそうするつもりです。いまは謂わば、クールダウンの期間です。長くはないはずですから。
ですから、そのときには、しっかりと、きっちりと、すべて、すべて、余すことなく伝えたいのです。ふふ、わたくし、最近は手帳を持ち歩きます。そうしたら、あれもこれも、と思いつきますもの。
え、どんな言葉かですって?
いやだ、野暮なことは聞かないで下さい。恥ずかしいですから。
#「ありがとう」そんな言葉を伝えたかった。その人のことを思い浮かべて、言葉を綴ってみて。
「今日はまだ起きてらっしゃいませんね」って、きみを担当する看護師さんが言ったの。珍しいなぁって思ったけれど、どうやら最近はそういうことが多いみたい。
最近、きみは夜が遅いって。
ぼくが帰ってから、お夕食、消灯時間が過ぎても。早く寝なかったツケが今日表れたみたいで、朝ごはんもまだって。
この個室には随分とお世話になっているはずなのに、きみの私物は少ない。
ここに来たての頃は、きみは「どうせきっと忘れてしまうのですから」ってほとんどをぼくの家に置いてった。おかげでぼくは毎日、鮮明に思い出す。
白い清潔なシーツの上で寝息をたてるきみは穏やかで、どんなときも変わらない表情。たまに眉間にしわができるけれど、くいくいって指で伸ばしてやる。睡眠が深いきみは起きないから、やりたい放題……なんて。
……ずっと気になってた。ベッドテーブル。寝るときは片しておくのに。そのまま。上には手帳が。
いままではなかったそれに、疑問とこころがざわざわってする心地。
人の手帳って勝手に見るのだめ。
分かってる。だから、ぎゅって目を瞑って。
カタンッってパイプ椅子が鳴ったのにだって、きゅってこころの模様が真ん中に寄るの。
****
薄い意識がようやく浮上して、シナプスがぴくっと瞼を動かした気配がした。暗闇を感じる前にもう、白い天井と遠くからは神経をチクチクと刺激するにおい。
知らない。
分からない。
そういう感情。
事実、何も思い出せない。不思議と恐怖とか焦りはなくて、どうしてそれに安心するのかも分からないけれど。
上体を起こして。
ぼーっと。
ふと視線を落とせばベッドの上にテーブルがあり、その上に手帳が。
表紙には「あなたへ」と。
あなた、とは誰を指すのか。しかし、この一室には自分ひとり。表紙の文字は天地が正しくこちらを向いていた。
だからこのあなた、というのを手帳の目の前にいる自分と仮定してしまおう。
ぺらり、とめくる。
箇条書きのそれは、情報だった。
自分が何者でここがどこでなぜここにいる必要があるのか、割と詳細に。
同じ内容が、何ページも。日付は違うから、きっと毎日驚きながら綴ったのでしょうね。カレンダーのバツ印と日付を照らし合わせれば、このページが昨日のものだと分かった。
同じようにわたくしについて。
それから――――重要、と何度も強調された箇条。そこにはわたくしではない、別の人物の存在が記されて。それがもう、詳細に詳らかに。
最後の行には『手の甲に、出来事を会話を忘れないうちに手帳に書き記しなさいと書いておくこと』と。昨日のわたくから今日のわたくしへ、そう指示されていた。
不思議な気分。
点々と色を置かれてそれをマーブル状に混ぜられているような。
自分のものじゃない文字たち。
知らないのに憶えているような、デジャヴとも言えばいいのでしょうか。夢を見たときのようでそうでないような、不思議な感覚。
この一室もそう。
ベッドの横にあるチェストの上の花瓶だとか、知らないキャラクターのぬいぐるみだとか、ベッド横のパイプ椅子とか。
わたくしの知らない存在が確かに肩を並べて、手を握っていてくれる。それを訴えかけて証明してくれるものたち。
「お早う」
「……はい」
入室の許可を求める声に返事を。
スー……と引き戸が開いて、その姿を見て、本当にシナプスがつながるような。ハッと。こころがぐるぐると、どんどん流れ込んでくる。
寂しそうにスマイルを浮かべるあなたに、あなたの名前を呼んでみた。驚くほど口馴染みがいい。すると、あなたはベッド横で膝をぶつけて。パイプ椅子を蹴飛ばす勢いで、床に膝を立てた。
ふふ、と笑みがこぼれてしまう。
思い出したわけではないんです、と告げれば、やっぱり悲しそうに。けれど、わたくしが広げていた手帳と手の甲を見て、目を見開いた。
ころころと顔の模様が変わってゆく。
晴れだったり雨が降ったり。
「う、……ぐすっ、…きみってばそういうところ、ほんと、そういうところ……っ!」
「あらぁ」
「あら、じゃあないよぉ! 知らない人に抱きつかれちゃうよ!!」
「どうぞ。あなたはわたくしのだいじなひと、もう分かっていますから」
「ゔぁあっ」
腕を回したあなたの背は少し冷えていた。
けれど、今日はあたたかい一日になるのだろうと、天気予報などなくても分かってしまった。
分かってしまったのです。
#今日の心模様
ダイニングテーブルは小さめ。
ちょっと狭くてお料理が載らないときもあるけれど、きみの手はすぐに取れるしきみもぼくの存在を確認できるから、とっても気に入ってる。……ちょっと狭いけど。
サクッて食感。
バターの香りが広がって、鼻を抜ける頃にはサクサクはとろとろになって消えちゃう。コーヒーミルクなんていっしょに飲んだら、もうしあわせ満点。
きみってばほんと、何でもできるんだから。
ふふ、って空気といっしょに笑う声。
きっときみは気づいてない。
ぼくは気づいちゃった。
「あのね、そんなに見つめられるとね、ぼくに穴が開いちゃうよ」
「おや、目は開けておりませんよ?」
「きみはそれがデフォでしょ? だからね、見つめられてるも同じ」
「あらぁ」
座ったままのきみの手がぼくの顔に触れる。
ぺたぺたさわさわ。ぼくの顔の上で踊るきみの手がくすぐったくて、笑っちゃう。
眉根を寄せて口はきゅ、って結んで。
すっごい真剣。
されるがままに。
「あら大変」
「なあに」
「あなた、お顔にクッキーがついていますよ」
「ゔぁ⁉」
「ふふ、その下に穴を隠しているのですか?」
「ちがっ……、もう!」
カァッと顔が赤くなる。
そしたらね、きみってば手の甲で頬を撫でてくるの。それでまたくすくす笑う。こらえ切れなくなったのか、ぶわっと花が咲くようにお顔を緩めて。
「あはは、そんなに照れなくても。お顔が熱くなって、茹だって。ふふ、あなたのお顔は聞いてても触ってもころころ変わってすてきですよ」
「もう! もう、からかうのなし!」
「本当のことを言っているだけですよ?」
「ゔぁあ! きみってばたまにいじめっ子!」
「あらぁ」
さっさときみの手をどけて、ナフキンで口を拭う。そしたら欠片もついてなかったの!
死角!
不覚!
きみってば本当。今日はいじめっ子の気分なの⁉
ぼくだってきみを穴が開くまで見つめてやるんだから、って思うんだけれど。
そんなことお見通し。
きみは涼しい顔をしてきれいな所作で、まるで優雅にアフタヌーンティー。きみは人一倍、自分に分からないところをだいじにする。それがまるで当たり前のきみの事象みたいに。
だからね、仕方ないんだよ。
ぼくがきみを前にしてあたふた百面相しちゃうのも、きみを見つめててそれを無意識に分かっているきみに目を泳がせちゃうのも。
今度はきみの手をあたふたさせてやるんだから!
#見つめられると
きみが得意なのは熱々なクラムチャウダー。
隠し味はオイスターソースとめんつゆなんです。貝類の旨味を表現できるんですよ。ってエプロンの紐を見せながら振り返るの。
もちろん、ぼくにだって得意料理はある。
なんてったって、きみのために練習したしレパートリーも増やしたんだから。
大事な日にきみはクラムチャウダーをつくってくれる。とってもおいしい。
今日という日を、きみと過ごすためにぼく、いろいろと頑張ったんだからね、そういうご褒美があってもいいと思うの。
小さめなダイニングテーブル。
きみとぼくとの距離が縮まるから、って。鍋敷きを忘れて焦がしたり、お茶の入ったガラス製のピッチャーを落として凸凹だったり。
あのね、ぼくはね、この傷たちの由来をぜんぶ覚えてるんだよ。
「エッ、わたくしの失敗をぜんぶ?」
「だめ?」
「ヒトとして忘却機能が働いていないのは由々しき問題ですよ?」
「んふ、意図的に繰り返して覚えるのは、学生のうちに練習してきたでしょ?」
なんて。
だってぼくはね、忘れたくないんだよ。
だんだんと日が翳ってきた。
今日はきみとずっと一緒にいられるのがうれしい。当たり前じゃなくなっちゃったけど、それが戻ってきたみたいで。
きみとうれしいもたのしいも共有してね、そうたって生きてゆくんですねってきみは笑顔。
そうだね、って。
そう言った瞬間だったの。
バチンッ‼――――きみがね、ぼくの頬をはたいたのは。
笑顔だったきみがまばたきをした瞬間、顔が表情が変わった。ぼくを見て、捉えて、怯えた。それから恐怖が怒りに変わってね。
人ってそういう生き物。
怖いと鼓舞して大きくなるの。
「誰ですあなた」
「……うん」
「どこです、ここは」
「あのね、ぼくの家だよ」
「わたくしはどうしてここに」
きみが座っていた椅子がガタンッて音を立ててひっくり返ってね、そのまま。キッとぼくを睨むきみは荷物も持たない――もしかしたら忘れてるのかも。
どっちにしろ、いまのきみにぼくのことなんか眼中にもなくて。タツノオトシゴもその卵も、ぜんぶ初期化されちゃったみたい。
ご馳走を残して。
「食べないの」
「食べられるわけがないでしょう!」
家から出て行っちゃった。
キッチンにはきみがつくったクラムチャウダー。テーブルにはぼくがつくった最後の一品。きみが好きなデザートだったのに。
ぼくはね、もうちょっとだけ一緒にいたかった。
だって、昨日は一日一緒だったから。予行練習だと思ったの。きみは本番に強かったでしょ。
なのに。
なのにこんなの。
ひどいと思わない? ぼくの気持ちはなかったことにされちゃう。せめて、きみが思い出してくれたらちょっとは救われるのに。
「……ひぐっ、ぅえ……ぐす、うぅ」
ぼたぼた、テーブルに新しい跡。
追いかけて病室に連れてかなきゃいけないのに、どうしても動けないの。
せっかくの今日という日。
あのね、ちょっとくらいきみを恨んだっていいでしょ? こんなひどいことするきみなんて、好きじゃないのに。何回、何回、ぼくはきみに傷つけられたと思う?
何回、きみを好きじゃないって思ったと思う?
何回、やっぱり惚れちゃうって。
何回、何回、何回も、好きじゃないきみを好きになって追いかけて、きみに嫌われる。
きみってばひどい。
きみはぼくのことを本気で嫌うときがあるのに。
ぼくは本気で嫌いになり損ねる。ぼくを心底嫌うきみなんて好きじゃないのに、次にはね、好きになってるの。きみしかいないんだ、って。
「……追いかけなきゃ」
ギイィ、椅子はいやな音。
重い足取りはだんだんと急ぐの。はやく追いつかなきゃ。どんなに嫌がられても腕を掴まないと。
でもね、でも、まだ、きみのこと好きじゃないのに。なのに――――ほんと、きみってばひどいよ。
#好きじゃないのに