六十一年式の黄色い車体。
きみが運転している姿が好きだったけれど、きみが運転するのは怖くなっちゃった。置いてかれちゃうかも知れないから。
もう真夜中。とっくに日付は変わったけれど、まだ、もう少しだけ今日がつづく。
いっそこのままでもいいのになぁ、なんて。
嫌われちゃうのはいやだからね。
いやだけど、ぼくがどうこうできることじゃないから、難儀難儀。とっても難しいこと。
あくびをしたきみは、ちょっとだけ窓の外を見た。
遠出ができたのは純粋にうれしい。何回か嫌われちゃったけれど、片手で数えられるだけだから、ぜんぜんへいき。大丈夫。
「随分、夜深くまで来ましたね」
「ねむい?」
「えぇ、……だいぶ」
「じゃあ寝なきゃ。明日の朝、きみがつらくなっちゃうよ」
「ですが、あなたはまだ運転するでしょう?」
「うん。きみがとなりにいるときに運転するのが、一番いいんだよ」
「ふふ、なんですか、それ」
「いいの」
おみやげの袋がきみの膝の上で、カサリ、音をたてるたびに、ぼくは不安になる。
おそろしくて、恐ろしくて、怖ろしくて。
べつに、それが起因じゃないけれど、目に見えて分かりやすい目印になり得るから。
しばらくはお話しをしていたんだけれど、やっぱり延々ってわけにはいかない。
だんだんときみの声が小さくなって、反応も鈍くなって、こくんって頭が揺れることが増えてきた。もうすぐ、きみの今日が終わる。
どうなんだろう、きみにとって毎日って連続しているのかな。それともぶつ切り? それが普通になっちゃってたら、すっごく悲しい。
「ね、寝ていいよ」
「ん~……」
「どこかで車停めてぼくも寝るから」
「……じゃあ、それまで起きています」
ちょっと寂びれたサービスエリア。
次のインターで降りるんだけれど、だって。
エンジンを切って、シートベルトを外して、シートも倒して。おみやげの袋は後部座席に。寝心地が良くないのもご愛嬌。
積んであった毛布にくるまって。
「今日はたのしかったです」
「けっこう遠くまで行ったもんね。おみやげもたくさん」
「先生や看護師さんに渡したいですからね。ふふ、自分用に買ったものもあるんです。見て思い出すのがたのしみです」
「そっか」
大きなあくび。きみは手の甲で隠して。
「もう、寝そうです。……おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
あやうく「さよなら」って言いそうになっちゃった。朝になっても「お早う」って言い合えるかも知れないのに。
そう思っちゃうぼくがいや。
そうなっちゃうかも知れないきみが、いや。
瞼を閉じて三分と五九秒。
きみは寝息をたて始めたの。
ぼくは眠れない。なかなか眠れなくなったのは、いつからだったっけな。
明日も安全運転しなきゃだから。
……この錠剤はきみに見つかりたくないね。
目は自然に醒める。
ぼやけた目で、頭で、すぐに分かっちゃうの。ビクッて身体が憶えててそれでもこころは痛い。
それでもぼくは頑張る。
だってきみといたいから。
「……誰ですか、あなた。人の車に勝手に乗って」
「……うん。お早う、ちゃんと送ってくから。連れ出してごめんね」
「……」
大丈夫。
よかった、車の外に出てどこかに行ってなくて。そう笑って見せるけれど、ぼくのお顔、大丈夫かな。
「誰」「どうして」「どこに」「どうやって」
きみがいっぱい問うてくる。昨日の朗らかさもなくて、手は白く握り、ぼくから少しでも離れようと窓に肩を寄せて。
順序づけて昨日のことを言っても、きみはぜんぜん訝しげ。ぼくのことなんて、なかったみたいにしてる。
それどころか、きみのお顔も声も、いっそ嫌悪感すら含んでいるみたい。
ほとんどマニュアル化してきた言葉。
道が分かるようになってからは、疑心も薄くなったみたいで、眉間のシワが浅くなっていった。いつもの穏やかさには程遠いけれど。
「……あなた、おかしいですよ」
「うん」
「何がしたいんです」
「きみとね、いっしょにいたいんだよ」
「初対面で……なんてひと」
きみが三〇二号室から出てくるのは、いつなんだろう。
後部座席でおみやげの袋がカサリ、音をたてた。
#今日にさよなら
G-39
それは長らくそこかしらにそのままだった。
それ、というのは、もちろん指示語であり特定のものを取り上げるときに使用される、ある国が基準の地図でいうところの極東に(中略)所謂、おやすみぬいぐるみシリーズのくろねこである。
はじめそれは、とあるくたびれた中層年の雑貨屋の地下にいた。レジ前のワゴンに山積みされた、ただの千篇一律に他ならない。どれにも同じく個性があり、正しく個性のない集まり。
ぼんやりと上に積み重なり融合していたものが、ゆっくりと時間をかけて上から取られてゆく。
H-1
そこで確かにその子――特定の人物を意図的に名前を排除して指し示すための言葉で、まさしく指示されたその子は、上のひとつを取り上げた。
しかしすぐに首を傾げて。
そこからは、またぼんやりとした集合体に戻る。【くろ】なんて個体識別コードを付けられたはいいが、そう呼ばれる機会は少ないものだった。コーヒーにクッキーはつきものであると疑いもなく考え、それが間違いだったときと同じことなのだろう。
中でも特別な個体識別コードを持っている個体はいたが、それぞれ相応な特別を持っていたから当たり前であった。
それ――【くろ】も同様にその子の特別たるべくそこにいるはずだった。
H-2
事が動いたのは唐突に、その子はさも唐突に――傍から見ればそう見えただけであって、その子からすれば当然の回路を辿った結果なのかも知れないが、とにかく【くろ】にとっては唐突に、それとも気まぐれに。
定位置になって空白もしくはデッドスペースもしくはブラックボックスに近しくなり始めた頃、その子が【くろ】を取り上げて、横になったのだ。
低反発の【くろ】の胴体は潰さず、まるで添い寝をするかのように。想定されていた用途で想定外の使い方をしたわけだ。
それからというものその子は毎日のように、なんなら本当に毎日【くろ】を抱き締めて息を夜に落とし込むようになった。
懸念されていた飽きは遠く、枕代わりにでもされているのかと思っていたのだがどうやら違うらしい。というのも、それにしては撫でたりぎゅっとめちゃくちゃに潰さない程度に腕に抱いたりするものだから、どうやらこれは枕ではなく、マイナスイオンだかイオンプロダクトファイナンスだとか、そういう類の、その子へ何らかプラス効果をもたらすものとして扱われているらしかった。
H-3
確信したのは何日目だったか。
とにかく、すとん、と分かった。
個体識別コードが【くろ】から【くろちゃん】になり、その後いつかのタイミングで【くろちゃん】から【クロウンティウス二世※1】になった。
それから【クロウンティウス二世=くろちゃん】になった。
定位置が変わり、ブラックボックスは解体された。
特別を持たされて、もたらされて。
【クロウンティウス二世=くろちゃん】は、その子にとってそういう存在になった。
そういう、という指示語の内訳と変遷の詳細に関してはG-39から目を通して頂きたい。
※1 クロウンティウス一世は存在しない。
#お気に入り
「あ」
「ん、どうしたの?」
きみが短く、珍しく声を上げたから。気になるのは当然。だって、ラプラスの計算も蓋然的にできるから、不意にっていうのはきみにとって必然になるわけで。
思わず、作り置きしていた真水をすくっていたバケツを落としたよね。
バチャッて水が撥ねたから服が濡れちゃった。
パッパッとまあるく布地に浮いてる水滴を、手で払った。防水処理もお手の物だったね。……たったの43800時間だったもの。
そんなぼくの旋毛を見ないで、きみはちょっと動きを止めてる。気になって点けっぱなし――スリープ状態にならないようにしてあるデスクトップに目をやった。
きみのフォルダーにメールが一通。
本文は英数字とアルファベットの羅列。件名も暗号化されてる。
ふと見れば、きみが、本当に、本当にひどくうれしそうに微笑んでいた。へにゃり、ふにゃり、肩も竦めて手の甲で口許が隠しきれていないの。
珍しい、そんなお顔見せるの。ぼくだってあのお顔を引き出すのすっごく難しいのに。
……誰が、どうやってやったの。
すっごいジェラシー。
「……いいことあったの。だれから? まさか、恋人とか言わないでよ」
「ふふ、もう融合も同然の親しい方からの通知です。ひどく惚気けられました。たのしみ」
「どういうこと……」
「お箸の使い方を教えて下さい。わたくし、使えるようにならないといけないんです」
「エッ……だって、泳げるようになるって言ってたでしょ、どうすんの」
「並行して習います」
「先生はだれ」
「あなたです」
「ゔあ」
ぼくだってお箸のとびきり上手じゃない。むしろ苦手なのに。泳ぎだって犬かきが平泳ぎに進化した程度なんだから。
「それから、4.07以降のアップデートも頑張ってゆきましょう」
「え゛……あのね、この7、8年で何回アプデしたと思ってるの。そろそろ頭空っぽにするクールダウンの時期じゃないの」
「三が日と祝日があったではないですか」
「疲れは溜めとけるけど、回復は都度しなきゃいけないんだよ。それにね、味蕾は10000個。えぐいんだからね、ちゃんと自覚してよ」
「あなたが生きていてよかった」
「話噛み合ってない!」
今日の日付け覚えた!
ぜったい忘れないから! 毎年確認してやるんだからね!!
くそう、ぼくのせいなんだから!
アルコール処理のスクリプトつくってやる! うんと弱くしてやるんだから、覚悟しててよね!
#10年後の私から届いた手紙
ぺらり、ぱらり……わずかにザラザラとした感触を指の腹でなでて、つまんで、倒す。
腰も背中もソファのクッションに包まれて。
リラックスした状態。
一字一句をじっくりと時間をかけて読み進めてゆく。換気のためと隙間ほどの空気の通りをつくった窓から、冷たくもやわらかい風が厳選されて届いてくる。
無意識に紙の端を遊ばせる手の影がやんわりと紙にかかっているが、文字を追うことに没頭してさほど気にも留めず。
どれほど没入していたのか。
目を休めたくて、ふと視線を上げた。
「うぁ⁉」
「あのね、没頭しすぎ」
わたくしの前にしゃがみ込んで、じーっと見つめていたあなた。呆れたようにため息をつき、それから、開いてある本の紙をトントンと指先で叩いた。
「何のおはなし」
「未来の自分が曲がり角からひょっくり出てきたら、刺すという話です」
「……きみ一般はね、ぼくに構うんだよ」
「はぁ」
「ぼく一般はね、見つめる先がね本を閉じるようにね、見つめてるわけ」
「個体差もありますね。わたくしは、まだ文字を追っていたい」
「……」
視線を手許に落として。また文字列をなぞる。
じーっと見つめてくるあなたの眉間には薄くシワができている。面白くない、面白くないから、目で訴えてきて。
気づいてはいるけれど、文字に熱が帯びてきたのは本当。だんだんとインクの中の情報に馴染んで、指先からシナプスまで、紙の束から溢れてくるものに溺れてゆく感覚。
昂ぶって昂ぶって。
ついつい一行、また一行と追って。
すると、あなたが本ごと下敷きにわたくしの膝に寝転がった。わたくしと本を別々に隔離して、むっと見上げてくる。
「何ですか、ページがくしゃくしゃになってしまいます」
「あのね、きみが持ってる本好きくない。きみ、とられる」
「とられるって」
「インクが規定の形になって並ぶだけのただの紙に勝てないなんて、ぼくはそれだけの存在なのか」
「ブフォッ」
「なに笑ってんの」
「すみません」
あまりにも真面目そうに――あなたからしたら充分真剣に、拗ねるものだから。おかしくて。吹き出してしまった。
まるで猫。白い猫とタンゴを踊っている気分。
ガサゴソと背中からわたくしの新書を抜き出して、しっかり栞を挟んでからあなたはテーブルにそれを置いた。なかなかしっかり。
わたくしの膝の上で腕を組んで。
「いーい? あのね、本よりぼくのほうがいい。プレゼンする」
「なるほど。つづけて」
「あのね、本の利点はね、持ち運び抜群、紙のいいにおい、インクと文字と紙のコントラスト、きみの視覚から思考を支配してシナプスで五感に薄くもしっかり錯覚を起こさせる。物書きの溢れる試行錯誤、とどけーって熱量、そういうのが溢れてきみを楽しませる。考察の余地もいっぱい」
「デメリットは値段と置き場所ですね。考察も正解が分からない」
「ぼくの利点。あのね、体温がある。髪もふわっふわ。ぎゅーってしてあげれる。声があるの。ぼくってばけっこういい声。いろいろ動く。逆立ちもおんぶにだっこ、いろいろござれ。ファッション……はあれだけど、きみが着せ替えできるよ。おいしいごはんもお届け。きみの思考も支配できないし気持ちを揺さぶるのも難しいけどね、視覚聴覚味覚嗅覚感覚、すべてでねきみになんでもかんでも伝えてあげる。ぼくはきみを否定も肯定もできる。ね、ぼくにしときなよ」
膝の上でドヤ顔。
思わず笑ってしまって。
「けれどメリットばかりではないでしょう?」
「あのね、デメリットはないの」
「ありますよ」
「あのね、ないの」
「気分屋だとか気難しいとか――――」
「あのね、ない!」
なんてゴリ押し。
ちょ、暴れないで。落ちますよ!
「本に負けないよ! めっっちゃ熱い気持ち、溢れて溢れてきみに受け止めてもらわないと困る! 人助け! きみのことどーんと受け止める!」
「ふふ、そうですね」
「んふ。あのね、ぼくにしとく?」
「あなたにしておきます」
ようやく起き上がったあなたは、わたくしのとなりで膝を抱えて歯を見せて笑って。それからまた、じっと見つめてきた。
その瞳はなんだかいつもよりずっと、鮮やかな色色が乗っていて。そこに留めておくのが難しそうなくらい。
#溢れる気持ち
「え」
「え?」
近くのお花屋さんで買ったきれいなお花を渡したら、きみはきょとんとしてから慌ててぼくを見てきたの。すっごく顔色を変えて。
くしゃっ、と包んでもらったラッピングが音を立てて歪んでいった。
一歩だけぼくに近づいて。
すでにシャワーをしたのか、ふわりと清潔なにおいがする。
「びょ、病気ですか……?」
「え」
「そ、それとも、べっ、別居ですか…⁉」
「えっ、なに? どうしたの」
思わず後退るくらい怖いお顔だったの。真に迫る、って書いて迫真。
でも訳が分からないの。何でそんな、冬が溶けたせいで薄氷の上に立たなくちゃいけなくなったようなお顔をしてるのか。さっぱり分からない。
だって、だってきみにそんなお顔をしてほしかったわけじゃない。
ただちょっとだけ、びっくりさせちゃおうって、驚いて喜んでほしくて。なのにどうしてそんな、ラグナロクを見たみたいなお顔なの。
きみは狼狽、ぼくは困惑。
硬直硬直、ずっとそんな時間が進んだの。ぼくが鞄を置いただけで、上着を脱いだだけで、きみってば肩を跳ねさせて。
ほんともう、ぼくには何も分からないから、つられて泣きそうになってくる。
落ち着かせようと思って近寄っても後退ってカバディ。ルールも勝ち負けもよく分かんないから延々と試合できちゃう。
埒明かないから変な距離感で弁明。
「あっ、あのね、そのお花、きれいだったから。きみ、お花好きだし、えと……あわよくば喜んでくれるかな……って」
「え」
「そのお花、す、好きくなかった……?」
「え、あ、……その、は、花言葉は……」
「花言葉? ぼく、そのお花がなんてお名前なのか分かんないから……わ、分かんない」
だんだんぼくの顔からも血の気が引いてくのが分かる。どんなににぶちんでも、ここまで来れば。
きれいって思ってぼくがきみに渡したお花、きみにとってあんまりよくない花言葉だった。それを贈られたから、あんなに。
この五放射の青色にどんな意味があるの……。
ちゃんとお花屋さんに聞いておくべきだった。
気まずい。
とっても。
きみもぼくも黙りこくっちゃって。なんだか息をするのさえ憚れるような沈黙が続くの。空気が重い。
何か言わないと、って口を開いたら、
「あ、あの」
「あ、あのね」
被っちゃう。いま、ほんと、そういうのいらないのに。ぼくたちが息ぴったりなばかりに。
また気まずくて口が閉じちゃう。
それって、すごくループ。
「あのねっ、ごめんね、ぼく、お花に明るくないから、ぜんぜん知らなくて。店員さんに教えてもらうべきだった」
「い、いえ、わたくしも早とちりを……」
「んーん、ぼくのせい。ごめんね。ぼくとっても健康。家賃だってきみと折半してたい。ほんと、そんなつもり、ないの」
「よ、よかった……」
ようやく行き違いもなくなって、ダイニングテーブルで腰を落ち着けた。
なんだかとっても疲れた……。
向かい合ってぼくたち、ぐったり。
その日はぎこちないまま、夜を迎えて朝陽を待った。ちょっといろいろ、お互いに感情も表情もお花の処遇も整理が必要。
きみにお花のお名前だけ訊いて。
ぼく、危うく溺れて呪文かけるところだったみたい。きみの反応も頷ける。
そのお花はきれいだし、きみも嫌いじゃなかったみたいだけれど、間柄も場面も知識もよくなかった。結局、話し合ってハーブティーに。
お互いに身体に取り込んじゃえって。
調べてみたら、なんだか身体に良さそう。
花びらを摘んで乾燥させて、お湯でおいしく。花びらの色だ出て、薄く青みがかったとってもきれいな花茶。
「ん、おいしい」
「本当。……喉に良いみたいですね、内臓にも」
「ごめんね。ほんと、今度から気をつける」
「健康にも。……ふふ、お花ありがとうございます。また贈ってください」
「うん。今度、お花の本、どれがいいか教えてほしい」
この騒動はちょっと、忘れられないかも。
#勿忘草(わすれなぐさ)