あにの川流れ

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 ぺらり、ぱらり……わずかにザラザラとした感触を指の腹でなでて、つまんで、倒す。
 腰も背中もソファのクッションに包まれて。
 リラックスした状態。

 一字一句をじっくりと時間をかけて読み進めてゆく。換気のためと隙間ほどの空気の通りをつくった窓から、冷たくもやわらかい風が厳選されて届いてくる。
 無意識に紙の端を遊ばせる手の影がやんわりと紙にかかっているが、文字を追うことに没頭してさほど気にも留めず。

 どれほど没入していたのか。
 目を休めたくて、ふと視線を上げた。

 「うぁ⁉」
 「あのね、没頭しすぎ」

 わたくしの前にしゃがみ込んで、じーっと見つめていたあなた。呆れたようにため息をつき、それから、開いてある本の紙をトントンと指先で叩いた。

 「何のおはなし」
 「未来の自分が曲がり角からひょっくり出てきたら、刺すという話です」
 「……きみ一般はね、ぼくに構うんだよ」
 「はぁ」
 「ぼく一般はね、見つめる先がね本を閉じるようにね、見つめてるわけ」
 「個体差もありますね。わたくしは、まだ文字を追っていたい」
 「……」

 視線を手許に落として。また文字列をなぞる。
 じーっと見つめてくるあなたの眉間には薄くシワができている。面白くない、面白くないから、目で訴えてきて。
 気づいてはいるけれど、文字に熱が帯びてきたのは本当。だんだんとインクの中の情報に馴染んで、指先からシナプスまで、紙の束から溢れてくるものに溺れてゆく感覚。
 昂ぶって昂ぶって。
 ついつい一行、また一行と追って。

 すると、あなたが本ごと下敷きにわたくしの膝に寝転がった。わたくしと本を別々に隔離して、むっと見上げてくる。

 「何ですか、ページがくしゃくしゃになってしまいます」
 「あのね、きみが持ってる本好きくない。きみ、とられる」
 「とられるって」
 「インクが規定の形になって並ぶだけのただの紙に勝てないなんて、ぼくはそれだけの存在なのか」
 「ブフォッ」
 「なに笑ってんの」
 「すみません」

 あまりにも真面目そうに――あなたからしたら充分真剣に、拗ねるものだから。おかしくて。吹き出してしまった。
 まるで猫。白い猫とタンゴを踊っている気分。
 ガサゴソと背中からわたくしの新書を抜き出して、しっかり栞を挟んでからあなたはテーブルにそれを置いた。なかなかしっかり。

 わたくしの膝の上で腕を組んで。

 「いーい? あのね、本よりぼくのほうがいい。プレゼンする」
 「なるほど。つづけて」
 「あのね、本の利点はね、持ち運び抜群、紙のいいにおい、インクと文字と紙のコントラスト、きみの視覚から思考を支配してシナプスで五感に薄くもしっかり錯覚を起こさせる。物書きの溢れる試行錯誤、とどけーって熱量、そういうのが溢れてきみを楽しませる。考察の余地もいっぱい」

 「デメリットは値段と置き場所ですね。考察も正解が分からない」

 「ぼくの利点。あのね、体温がある。髪もふわっふわ。ぎゅーってしてあげれる。声があるの。ぼくってばけっこういい声。いろいろ動く。逆立ちもおんぶにだっこ、いろいろござれ。ファッション……はあれだけど、きみが着せ替えできるよ。おいしいごはんもお届け。きみの思考も支配できないし気持ちを揺さぶるのも難しいけどね、視覚聴覚味覚嗅覚感覚、すべてでねきみになんでもかんでも伝えてあげる。ぼくはきみを否定も肯定もできる。ね、ぼくにしときなよ」

 膝の上でドヤ顔。
 思わず笑ってしまって。

 「けれどメリットばかりではないでしょう?」
 「あのね、デメリットはないの」
 「ありますよ」
 「あのね、ないの」
 「気分屋だとか気難しいとか――――」
 「あのね、ない!」

 なんてゴリ押し。
 ちょ、暴れないで。落ちますよ!

 「本に負けないよ! めっっちゃ熱い気持ち、溢れて溢れてきみに受け止めてもらわないと困る! 人助け! きみのことどーんと受け止める!」
 「ふふ、そうですね」
 「んふ。あのね、ぼくにしとく?」
 「あなたにしておきます」

 ようやく起き上がったあなたは、わたくしのとなりで膝を抱えて歯を見せて笑って。それからまた、じっと見つめてきた。
 その瞳はなんだかいつもよりずっと、鮮やかな色色が乗っていて。そこに留めておくのが難しそうなくらい。




#溢れる気持ち



2/6/2023, 6:49:43 AM