──リラックス?
ふと、甘酸っぱい香りが漂ってきて本から目を上げる。キッチンから、果物のような、でも慣れない香りがしていた。
夕食をいっしょに食べませんか、という誘いに快く応じてくれた友人は、最近珍しい食材を集めているらしく、招かれた側だというのに料理を作っている。手の込んだ調理をする気になれない私にとってはありがたい事だけれど。
「何のお料理ですか?」
「あら、本はもう良いの?」
後ろから手元を覗き込むと、まな板から目を離さないまま質問が返ってきた。
「読み終わりました」
「速いわねぇ」
「面白かったですよ。もう一回記憶を消して読み返したいくらいです」
「勧めた甲斐があったわ」
友人がナイフを当てているのは鮮やかな黄色の果物だ。レモンに似ているけれど、それにしては形が丸い。
「不思議な香りがします」
「東の方の果物よ。ユズ、っていうらしいわ」
「ゆず」
植物図鑑でも見た記憶がない。よほど珍しい果物みたいだ。
「どうやって使うんですか?」
「基本は香り付けね。はちみつに漬けても美味しいらしいから、明日買ってこようかしら」
「そのまま食べると酸っぱそうですしね……」
「あら、東ではこれを湯船に入れて浸かるらしいわよ」
「湯船に」
切り刻んだ皮がたくさんお湯に浮いているのを想像する。
「……お掃除が大変そうですね」
「そのまま入れるのよ」
「そのまま」
「魔除けとか、そういう意味があるみたいね」
「不思議な習慣ですね」
しみじみと言うと、友人はおかしそうに笑った。
「入れてみる?」
「魔除けですか」
「良い香りだし、リラックス出来そうじゃない?」
「なるほど……」
加筆します
(ゆずの香り)
──大空たり得ない。
曇天を見上げて、大空だなんて言えないでしょう?
ぶ厚い雲の向こうに澄み渡るような青が広がっていたとしても、それを見ることはできないのだから。
薄雲の向こうに目の覚めるような星空が広がっていたとしても、その光はこちらに届かないのだから。
自分の体さえ認識できない暗闇の中で、光はあるだなんて言えないでしょう?
一寸先は闇、と言うのに誰も一寸先の光を信じて希望を灯さないのは何故?
灯台下暗し、と言うのに誰も光のすぐ近くにある闇を照らさないのは何故?
曇天は大空になり得ない。
暗闇は希望になり得ない。
ああ、でも。
あなたはご自分で希望を生み出せるのでしたね。
──曇天を照らす光のなんて眩しいこと!
(大空)
──祝福はいらない。
いつか結婚式を挙げたいんです。
二人だけで、
誰にも気づかれない場所で、
いつもと何も変わらない服を着て。
ベルを鳴らしては駄目ですよ。
だって、こんなに幸せなのが見つかったら、
神さまに怒られてしまうから。
だって、こんなに素敵な人が見つかったら、
神さまに取られてしまうから。
祝福なんて必要ないんです。
これ以上幸せになったら怖くて仕方がないから。
これ以上愛をもらったら離れられなくなるから。
どうせ天国には行けないんです。
地獄で悪魔の祝福でも受けましょうか。
私、あなたといっしょなら。
怖いものなんてないんですよ。
(ベルが鳴る)
──あの人が帰ってくるまで、あと。
窓の外から、どさり、となにか重いものが落ちる音がした。読書を中断してそちらへ目を向けると、一面が真っ白だった。
「え……?」
雪だ。
本にしおりを挟んで立ち上がり、締め切ってある窓に近づく。どうりで朝から冷え込むと思った。雪が降るほどの気温なら納得だ。
「寒い……」
羽織っているカーディガンを握りしめて、静かに身を震わせる。家の中をどれだけ暖めても、窓のそばは冷える。
特に、いつもより人がひとり少ないような日は。
「……」
あの人は、旅先で寒さに震えていないだろうか。
いくら旅慣れしているといっても真冬だ。宿が取れないなんてこと、起こらなければ良いのだけれど。
吐息で白く曇ったガラスをそっとなぞって、口からこぼれそうになる寂しさを堪える。声にしたところで、待ち人が早く帰ってくるわけでもない。
ただ、ため息を吐くくらいは許してほしい。
さらに曇って外が見えなくなった窓から離れながら、今日の夕食は友人と摂ろうと決めた。
(寂しさ)
──遠くへの手紙。
あたたかい寝巻きを買いに行こうと約束しましたね。あなたはずいふん寒がりで、冬の朝がとても苦手だったから。あなたの好みに合わせた濃さのコーヒーを淹れて、どうにかリビングに連れてくるのに苦労しました。
揃いのマフラーを買おうと言ってくださったのはいつだったでしょうか。みぞれが降っても霜が降りても、いっしょに出かけたかったから。お互いの髪の色や瞳の色と合わせようと言ってみたりして、とても楽しい時間でした。
雪が降ったらゆきだるまを作りたいと願ったのを覚えていますか。幼い頃は、寒い日に外で遊ぶなんてことは許されなかったから。にんじんを鼻に、バケツを帽子に、枝を手にするんだと知って、とっても驚いたんですよ。
そちらでは雪は降りますか。寒さも暑さもない、ちょうどいい過ごしやすい気候なんでしょうね。雨も降らないんですか。それなら虹もかからない?
雪に似た、白い羽が降っているんでしょうか。もしかしたら、今のあなたにもその羽はあるのかもしれませんね。
あたたかい毛布にくるまっておしゃべりすることも、互いの瞳の色のマフラーを巻いて出かけることも、地面に足跡をつけながらゆきだるまもつくることもできないけれど。
大丈夫だから、安心して待っていてくださいね。
何も心配なさらないでください。
あなたがいなければ生きていけないけれど、あなたがいなくても呼吸をすることはできるのですから。
(冬は一緒に)