──いただきます、が言いたかった。
鋭い橙色がこちらを見下ろしていた。それが怒りと、何よりも心配を孕んでいることは明白で、そんな表情をさせてしまったと申し訳なくなる。
「俺、言ったよな?」
「……ああ」
「しばらく忙しいから帰って来られないけど、ちゃんと飯食えって言ったよな?」
「……食べている」
直視できなくてダイニングテーブルに視線を落とせば、呆れたような声が返って来る。
「あのなぁ、カロリーバーはあくまでも栄養を補助するものであって、主食にするもんじゃないんだよ。ずっと続けてれば限界が来るだろ。……最後にあったかい飯食ったのいつだ?」
「……みっかまえ」
「俺が帰ってこられ無くなった初日からかよぉ」
静かに顔を上げると、呆れを通り越して橙の瞳が冷たかった。……冷たい太陽もあるのか。セーターの裾を手で強く握りしめる。
「何食いたい?」
「……?」
「好きなもん作るから」
作って、くれるのか。約束を破ってしまったのに。
冷えていた指先が、じわりと熱を持った。
(愛情)
加筆します
──これが平熱になるまで。
初めて手を繋いだとき、向こうは大層驚いていた。ずいぶんあたたかい、熱でもあるんじゃ無いか、と薄水色に心配を滲ませながら。
幼い頃から医者に平熱が高いと言われていた。何か体調に問題があるわけでは無いものの、熱を測ると他人の平熱よりは高く出る。普段体温が低いと言われている相手にとっては、俺の平熱が微熱とほとんど変わらないようだった。驚いて当然だ。
(微熱)
後日加筆します
──眩しくたっていいじゃないか。
玄関のドアを開いて一歩踏み出した瞬間、強い光に目を灼かれて思わずその場でしゃがみ込んだ。
「あ゙ー……眩しい」
目を押さえてうんうん唸っていると、かしゃんと鍵をかける音がして、灰色のスニーカーが二、三歩先で立ち止まる。それがちょうど影になって、目の奥がちかちかとする気持ち悪さが少しずつ収まっていく。太陽を遮ってくれる同居人が細くため息を吐いた。
「二日も家に籠って読書をし続けていればそうなるだろう。普段から外に出ないならばともかく、お前は散歩と言ってよく出かけるのだから」
「んー、ひたすら本読んでたい気分だったんだよなあ」
……正確には、本の内容以外のことを全部頭から追い出したかった。いろいろと疲れることがあったのだ。
「気は済んだか」
「まあ、そこそこ」
数日前に全身を支配していた暗くて重い感情はだいぶ落ち着いた。今日一日、同居人とのんびりしていれば、明日から職場に行けそうだ。
「……にしても眩しくねえ?」
「冬の日差しは夏よりも強いと聞くな」
「ふつー逆だろぉ」
まだ顔が上げられない。太陽め、冬のくせに頑張りやがって。
「冬の日差しも好ましいが」
「なんで?」
「空気が澄んでいて、陽の光がまっすぐに届くような気がする」
「そっか」
お、だんだん目が開けられるようになってきた。何度か瞬きをすると、ぼやけていた視界がはっきりしてくる。
「落ち着いたか」
「ん」
紺色のコートを着込んだ姿を見上げても、逆光のせいで表情が見えない。灰色の髪が陽に透けて静かに光っている。ぼうっと見ていると冷たい風が吹いて、家の周りの落ち葉が音を立てた。セーターを着てきたのは正解だったみたいだ。
「そろそろ立て。じっとしていても寒いだろう」
「んー」
あたたかい毛糸に包まれた手がこちらに差し伸べられた。布地越しの手をぎゅっと握ると、予想外に強い力で腕が引っ張られて、ややバランスを崩す。
それに文句を言おうと口を開きかけて、何も言えずに閉じてしまった。
「……なんで笑ってんの」
マフラーに隠れそうな口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。分かりにくいこいつの笑い方だ。
「いいや」
そう言って、あたたかそうな灰色で顔の下半分を隠してしまう。勿体無い。追求するのを潔く諦めて、繋いだままの手を引いた。
「どっか行きたいとこあるか?」
「いや、……」
何か思いついたことがあったようで、薄水色の瞳が少し伏せられる。
「お前は、普段どんな道を歩いているんだ」
「ん、散歩コースってことか」
「そうだな」
それなら慣れたものだ。こいつと歩いてみるのもいいかもしれない。
「疲れたらすぐ言えよー」
「ああ」
こいつは普段書類仕事が多いから、どうしても俺より体力が無い。普段と同じペースで歩いていたらあっという間に息を切らしてしまうだろう。
「あ」
「ん?」
歩き出した矢先、ふと立ち止まったと思うと、さっきの俺みたいにしゃがみ込む。
「どした?」
「団栗だ。ほら」
立ったまま手元を覗き込むと、紺色の手袋の上にころりと転がっていたのはまるいどんぐり。秋はそろそろ終わって、冬の気配が強いっていうのに。子供が拾い損ねたのかもしれない。
「お、そこにもある」
「本当だ」
指差してやると嬉しそうな声をする。なんか学生時代にやった気がするな、こういうの。
「随分と懐かしいな」
「どんぐりが?」
「覚えていないのか、学園に通っていた頃に拾っただろう。落ち葉や松ぼっくりで写真立ても作った」
「そういやそうだった」
こいつの部屋で見た記憶がある。その時に作ったものだったのか。
「ああ。宝物だ」
「……」
たからもの、か。
透き通った瞳がこちらを見つめる。その水色に太陽の光が反射して、眩しさに思わず目を細めた。水面がゆらゆらと揺れて光を蓄えているような瞳だった。
「……まぶしいなぁ」
「次はサングラスでも持って来るか」
「いんや、サングラスじゃ防げねえからいい」
不思議そうに見上げて来る瞳は相変わらず光を宿していて眩しい。それでも、目が痛くなるような眩しさじゃなくて、ずっと見ていたいような強くも優しい光だ。
「きらきらだな」
「……?」
「ははっ」
わからなくていい。そのまま光っていてくれ。眩しくても、その光をずっと見つめているから。
(太陽の下)
──心まで冷え切ってしまうから。
爪先が冷たくて目が覚めた。起き抜けの回らない頭で足元を見れば、毛布が掛かっていない。隣で眠っている寒がりな同居人に持って行かれてしまったらしい。
「……今日は眠れたのか」
隣の茶色い頭を撫でる。起きる様子はない。
昨日の夜はなんの前触れもなくおかしなことを言い出すから驚いた。仕事が溜まって精神的に消耗していたのには気づいていたが、まさかあそこまで追い詰められることがあろうとは。
(セーター)
後日加筆します
──お前は一緒に沈んでくれなくていい。
目を開いて最初に感じたのは、パジャマが肌に貼りつく気持ちの悪さだった。ベッドの縁に腰かけて額を拭う。やけに汗をかいている。襟をつまんでぱたぱたと風を起こすと、全身がぶるりと震えた。そういえば天気予報で冷えると言っていたっけ。カーテンのすき間からは光が全く差し込んでいない。きっとまだ真夜中だ。
パジャマ、パジャマ。どれに着替えればいいだろうか。電気をつけるのが億劫だ。魔法で体を清める気にもなれない。家具のぼんやりとした形しか見えない中で立ち上がり、手探りでクローゼットの取っ手を探し当てる。なめらかな木目が、手に心地よかった。
白は明るすぎる。黒は夜に呑まれてしまいそうになる。自分の瞳の色に近いオレンジは、どうにも太陽を連想させていけない。暗さに慣れてきてなんとなくの色がわかるようになった目を凝らして、何着か並んだパジャマに触れていく。ああ、どれも駄目だ。俺は何色が好きなんだっけ?
替えの服を探すのを諦めて、廊下につながる扉へ足を向ける。フローリングの床が冷たい。足裏から冬の気配に侵食されてしまいそうなほどに。
「あ……」
リビングに明かりがついている。まだ仕事をしているんだろうか。眩しすぎる光にほとんど目を瞑りながら、そちらへふらふらと歩く。暖房の魔法具でも使っているのか、近づくにつれ冷えた空気が緩んでいく。
部屋に入ってからどうにか薄目を開けると、ダイニングテーブルの前に同居人の後ろ姿が見えた。カリカリとペンを走らせる音がする。文字を書くたびにかすかに揺れる灰色の髪が、なぜだかひどくあたたかそうだった。
「なんで、ねてねえの」
首に腕を回して後ろから抱きつくと、灰色の頭がぱっと振り返る。近すぎるせいでぼやける薄水色が一瞬まるくなって、すぐに元に戻った。
「これだけ終わらせてしまいたかったんだ。そろそろ寝室に行こうと思っていた」
「そ、か……」
夜だからか少しばかり潜められた声が、すぐ近くで聞こえる。その声が、ほんのちょっと温められた空気に溶けるくらい優しかったから。だから。
「なあ、おれ」
「なんだ」
「しぬときは、おまえの水にしずみたい……」
どこまでも透明でどこまでも美しい場所で、水底へずっとずっと落ちていくように。いたみもくるしみも感じないで、澄んだ魔力の残滓がきらきらと光っているのをじっと見つめながら。
「そうか」
「……なんで、おれなの」
ぼやけた薄水色はまっすぐにこちらを見ている。思わず目を伏せた。
「こんなおもいやつ、いやだろ。なんで、きらいにならねえの」
「……私は」
優しい声だ。
「死んだらお前の土で埋葬してほしい」
「あ、……?」
「重いだろう。私を嫌いになるか」
「……なるわけ、」
「そういうことだ」
何が、そういうことなんだろう。おれがおもいのはかわらないのに。
「最近、よく魘されていたな。眠れないのか」
「……わかんねえ」
ただ、今はすごく眠い。目を閉じたらすぐにでも寝てしまいそうだ。
「おい。……寝るのか」
眠い。眠くて仕方がない。
「おやすみ、良い夢を」
額にあたたかい温度が触れた。なんだっけ、これ知ってる。小さい頃、よく母さんと父さんがやってくれた。
「……おやすみぃ」
深い深い眠りの底へ落ちていく。底が見えなくて足がつかないような深い場所に。
ああ、でも。ここに沈むのは、冷たくないなあ。
額に、やわらかな熱が残っているような気がした。
(落ちていく)