──お前は一緒に沈んでくれなくていい。
目を開いて最初に感じたのは、パジャマが肌に貼りつく気持ちの悪さだった。ベッドの縁に腰かけて額を拭う。やけに汗をかいている。襟をつまんでぱたぱたと風を起こすと、全身がぶるりと震えた。そういえば天気予報で冷えると言っていたっけ。カーテンのすき間からは光が全く差し込んでいない。きっとまだ真夜中だ。
パジャマ、パジャマ。どれに着替えればいいだろうか。電気をつけるのが億劫だ。魔法で体を清める気にもなれない。家具のぼんやりとした形しか見えない中で立ち上がり、手探りでクローゼットの取っ手を探し当てる。なめらかな木目が、手に心地よかった。
白は明るすぎる。黒は夜に呑まれてしまいそうになる。自分の瞳の色に近いオレンジは、どうにも太陽を連想させていけない。暗さに慣れてきてなんとなくの色がわかるようになった目を凝らして、何着か並んだパジャマに触れていく。ああ、どれも駄目だ。俺は何色が好きなんだっけ?
替えの服を探すのを諦めて、廊下につながる扉へ足を向ける。フローリングの床が冷たい。足裏から冬の気配に侵食されてしまいそうなほどに。
「あ……」
リビングに明かりがついている。まだ仕事をしているんだろうか。眩しすぎる光にほとんど目を瞑りながら、そちらへふらふらと歩く。暖房の魔法具でも使っているのか、近づくにつれ冷えた空気が緩んでいく。
部屋に入ってからどうにか薄目を開けると、ダイニングテーブルの前に同居人の後ろ姿が見えた。カリカリとペンを走らせる音がする。文字を書くたびにかすかに揺れる灰色の髪が、なぜだかひどくあたたかそうだった。
「なんで、ねてねえの」
首に腕を回して後ろから抱きつくと、灰色の頭がぱっと振り返る。近すぎるせいでぼやける薄水色が一瞬まるくなって、すぐに元に戻った。
「これだけ終わらせてしまいたかったんだ。そろそろ寝室に行こうと思っていた」
「そ、か……」
夜だからか少しばかり潜められた声が、すぐ近くで聞こえる。その声が、ほんのちょっと温められた空気に溶けるくらい優しかったから。だから。
「なあ、おれ」
「なんだ」
「しぬときは、おまえの水にしずみたい……」
どこまでも透明でどこまでも美しい場所で、水底へずっとずっと落ちていくように。いたみもくるしみも感じないで、澄んだ魔力の残滓がきらきらと光っているのをじっと見つめながら。
「そうか」
「……なんで、おれなの」
ぼやけた薄水色はまっすぐにこちらを見ている。思わず目を伏せた。
「こんなおもいやつ、いやだろ。なんで、きらいにならねえの」
「……私は」
優しい声だ。
「死んだらお前の土で埋葬してほしい」
「あ、……?」
「重いだろう。私を嫌いになるか」
「……なるわけ、」
「そういうことだ」
何が、そういうことなんだろう。おれがおもいのはかわらないのに。
「最近、よく魘されていたな。眠れないのか」
「……わかんねえ」
ただ、今はすごく眠い。目を閉じたらすぐにでも寝てしまいそうだ。
「おい。……寝るのか」
眠い。眠くて仕方がない。
「おやすみ、良い夢を」
額にあたたかい温度が触れた。なんだっけ、これ知ってる。小さい頃、よく母さんと父さんがやってくれた。
「……おやすみぃ」
深い深い眠りの底へ落ちていく。底が見えなくて足がつかないような深い場所に。
ああ、でも。ここに沈むのは、冷たくないなあ。
額に、やわらかな熱が残っているような気がした。
(落ちていく)
――何年目かわからなくなるまで。
「九年目はトウキらしいな」
「え?」
美しい仕草でチーズケーキにフォークを差し込みながら、友人が突然言った。思わず、桃を口に入れようとしていた手が止まる。トウキ?
「とうき、って何」
「食器などに使われる陶器だが」
「え、うん。それが九年目?」
「ああ。結婚九年目を陶器婚式というそうだ。ほら、五十年目の金婚式が有名だろう」
「あー、そういうこと!」
相変わらず言葉の足りない話し方だ。まあ、こちらを信頼しているからこそだというのはわかるけれど。気を抜いているのだと思えば悪い気はしない。
「食器類は足りていそうだな……何か入り用なものはあるか」
「んん、特にないかなあ」
後日加筆します。
(夫婦)
──これだから君は。
「……」
視線の先で、同居人が机に突っ伏して寝ている。狭い机には専門用語のの並んだ資料やら分厚い研究書やらが乱雑におかれていて、余裕のなさが窺えた。普段は整理整頓が得意なのに。
「うわあ」
一歩近づいて、思わず顔を顰める。長い銀髪に隠れて見えにくかったけれど、枕がわりにしているのはハードカバーの専門書だった。もはや題名すら全く理解できない。少し眉間に皺が寄っているのは、無理な体勢で寝ているからだろうか。このままだと首を痛めてしまいそうだ。
「んん゙……」
ほら、苦しそうにしている。早くベッドで寝かせてあげたほうが良いだろう。
「んー……」
浮遊魔法を使おうと杖を手に持って、少し考えてから机に置く。すやすやと寝こけている様子を確認して、背中と膝裏に手を差し込んだ。
「またご飯抜いたな」
この前抱えたときより軽い。研究に熱中すると寝食を忘れる癖は相変わらずで、早く寝ろと言っても聞きやしない。まるで子供だ。遅れてきた反抗期とでも言うのだろうか。
「んう、」
ふいに力のこもっていた表情が緩んで、穏やかな寝顔になる。白銀の睫毛が微かに震えたと思えば、口元が笑みを形作った。
「夢でも見てるのかな」
そんな様子は微笑ましいけれど、今度こそ時間を忘れすぎる悪癖をどうにかしなければ。
さて、頑固な恋人をどうやって説得しようか。
(どうすればいいの?)
*加筆しました。
――大切なものを増やしてはいけない。
失うことをおそれるようになるから。
――一つの物に、人間に、心を傾けてはいけない。
失えば何も守れないほどの悲しみが訪れるから。
――宝物を作ってはいけない。
それが自らの全てとなってしまうから――。
「……馬鹿馬鹿しいと思うか」
「さあな。そういう考え方もあるだろうな、そう思うんならそれで良いだろ、で終わりだ。生憎実の無い議論に熱を込められるほど人間ができてないもんで」
「私はお前の意見を聞いている」
「じゃあお前の考えは?」
「ある程度正しくてある程度間違いだ、と」
「ふうん」
「貴族として下の者を守らなければならない。それがそう生まれた者の義務だ」
「めんどくせえ生き方」
「面倒な生き方をする人間を選んだのはお前だろう」
「そりゃそこが好きなんだからなあ」
「……お前の意見を聞きたい」
「それを聞いてなんになる?」
「知りたいと思うのは悪いことか」
「いいや」
「ならば教えてくれ」
「んー……全てを守れるほどの力を手に入れろ、が俺の答えかな。守れないから愛するなってのは甘えだ。つうかそもそも、タイセツナモノが守られるだけってのが気に食わねえんだよなあ。それにだって守りたいものはあって、守ろうと必死になるはずだろ」
「……成程、お前らしいな」
「そうかあ?」
「ああ。お前らしくて……世界一好ましい」
「ははっ、そうじゃねえと」
大切なものを、宝物を守れないなどと誰が決めた。
宝物が、守られるだけの存在であると誰が決めた。
どこの誰かは知らんが見ていろ。私は、私の宝物とともに幸せになる。
――大切なものを増やすと良い。
そのぶんだけ強くなれるから。
――誰かひとりに心を傾けたって構わない。
それは困難の時心の拠り所となるだろう。
――宝物を見つけると良い。
自らの全てを賭けて守ろうとするだろうから──。
(宝物)
──好きな香り?
キャンドル、と言われて真っ先に思い浮かぶのは魔獣避けの蝋燭だ。魔獣対策課に勤める人間はほとんどがそうだろう。職業病と言えるかもしれない。
魔獣が嫌う薬草や香草を調合し、固めただけの実用性重視の無骨なものだ。市販のと違ってなんの飾り気も無いし、なんなら魔獣に効果があれば良いから人間の嗅覚じゃ全然匂いを感じない。そのせいで、局員からは「効いているのか効いていないのか分かりづらい」と不評だった。
しかしそこは天下の魔法省、局員の不満は放っておかずにさっさと対応するのが吉と見て、研究所に依頼を出した。内容は「魔獣忌避蝋燭の匂いの改善並びに効果の増加」。さりげなく効果もあげようとしてるところがウチだよなあ。
(キャンドル)
後日加筆します。