──月だけが見ていた?
窓の近くのソファで本を開いていると、よく虫の鳴く声がする。秋の夜は、それに耳を澄ませながら文字を追うのが気に入りだ。
「秋といえばススキだよなあ」
「……すすき」
風呂上がりの濡れたままの髪で同居人が隣に座った。耳慣れない言葉だ。すすき。箒の仲間か何かだろうか。
「見たことねえ? わさわさした茶色っぽい草」
「わさわさ……」
「ふわふわもしてる」
「ふわふわ……」
聞けば聞くほどよくわからない。草なのか、それは。
「月見で団子食いながらさ、隣に置いとくの」
「その草も食べるのか」
「食わねえけど!?」
なんのために飾るんだ。
後日加筆します。
(ススキ)
──生まれて初めて空を見たような。
婚約指輪が欲しいと先に言ったのは、意外にも向こうからだった。いつ言い出そうかと悩んでいた矢先のことで、ぽかんとしていたら水が降ってきたのを良く覚えている。婚約者に冷水ぶっかける奴いるか? しかも室内とは言え暖かくはない季節に。
まあ、当時の一悶着は置いといて。
貴族として、結婚する予定だということを早めに示しておきたいというのが、向こうが言い出してきた理由らしかった。釣り書きが来るのが鬱陶しいと愚痴られたら指輪を作らない手はない。
あいつの実家御用達のジュエリーショップで、材質から職人に至るまで協議を重ねて(ほとんど見てるだけだった)店側とあいつの口からぽんぽん飛び出す金額に恐れ慄いて(貴族の体面を保つためだと説得された)どうにか形になったのが今の指輪だ。
後日加筆します。
(脳裏)
──声も出さずに。
冬の草木から露が落ちるように、若葉色の瞳が絶えず雫を零している。何も言わずに抱き寄せて背をさすると、ローブがきゅっと掴まれた。
皺になるくらい強く握ってくれればいいのに、感情を押し殺すのが得意な婚約者はそれすらもしない。時折跳ねる肩と乱れた呼吸だけが、硬いようで柔い心の乱れを伝えてくる。
突然涙を流し始めるという症状は、泣きたいときに十分泣けなかった人間に稀に現れるものだそうだ。
学園時代、なんの前触れもなく目元を濡らし始めた姿に驚いた自分に、当の本人はハンカチを取り出しながら平然と言った。
『ただの生理現象だから気にしないで。別に意味もないし』
ねえ、君が泣くことに本当に意味はないのかい。なんだっけ、どこかの本で読んだよ、泣くことはリラックス効果があるって。もっと感情を露わにして、ぶつけてくれても良いのに。きっと、それすらも愛おしいのだから。
「落ち着いた?」
「ん、」
肩から顔を上げる気配がして、替えのハンカチを差し出しながら尋ねる。細かな水滴のついた睫毛が何度か動いて、その度に呼吸が整っていく。
「もっと泣けば良いのに」
「え?」
「泣いたら楽になるって何かで読んだから。全部俺にぶつけてくれれば良いのに」
不満を込めて言えば、婚約者はおかしそうに淡い緑の瞳を緩めた。
「そんなこと言われても、君の前でしか泣かないし、泣けないから。それじゃ足りない?」
「……え?」
……どうやら、この婚約者は今まで思っていた以上にわかりにくい感情表現をするらしい。
(意味がないこと)
※症状は捏造です
──あなたとふたり。
あいつと私が犬猿の仲だと思っている人間が一定数いるらしい。まあ、そう不思議なことでは無い。
生まれ、見た目、話し方から服の好みに至るまで、似ているところを探す方が困難だ。
家の名を背負わずに生きる姿を羨ましく思ったこともある。多くの友人に囲まれて談笑することに憧れなかったとは言わない。
それでも、生まれを変えることは不可能であって、むしろ恵まれている方だと自覚している。
だから手を取り合ったのかもしれない。
自分の思考とそっくりそのまま同じ人間がいたら恐怖を覚えるし、その人間と話したとして、何も生まれない。自問自答を繰り返すようなものだろう。
何もかも正反対な人間と──あのお人好しに見えて案外冷静な視線で周囲を見つめる男と手を取って、共に生きていくことを選んだのは他でも無い自分だ。
互いに欠けた部分を補い合って、一つのモノのように立っている。
それで良い。
凸凹が擦れ合って、いつしか違いが目にわからないほどになるほどまで共に居ようか。離れることなどないのだから。
……さて、私の唯一。そろそろ真っ赤になった顔を上げてはくれないか。
いつも私ばかりやり込められているから、少し仕返ししようと思っただけなんだったんだが、案外効果があったようだな。
(あなたとわたし)
──雨の日の買い物。
ふいに湿った風が前髪を揺らして、少しだけ開けておいた窓の外に視線をやる。ついさっきまで薄い雲が広がっていた空から、細い雨が降り始めていた。
「強くなるかなあ」
この後、午後から友人と街に買い物をする予定がある。水を操る友人からしたら調子のいい天気なのかもしれないけど、自分からすると本が濡れてしまうのが難点だ。
でも一方で、雨の日の独特の土の匂いや青々とした緑は気に入っていたりする。最近晴れ続きだったから、久しぶりの雨は乾いた植物たちを蘇らせるかもしれない。
植物を使う自分の魔法にしても、かんかん照りの日より少し湿度が高い方がやりやすい。
「あめ、あめ、ふれ、ふれ……」
懐かしい童謡を口ずさみつつ、眼を閉じて耳を澄ませば、小さな水滴が地面や屋根や植物の葉を打つ音がする。学園の庭にある池では、蛙が元気に跳ねているだろうか。
「まあ、雨の日に出かけるのも良いかも」
こんな優しい雨なら、友人との外出を楽しませる一つの要素になるかもしれない。
椅子から立って出かける準備をしながら、細く開いていた窓を少し広げた。
(柔らかい雨)