『平穏な日常』
いいだろうな。
朝日が心地良く目を醒ます。
温かな味噌汁の香りに誘われてリビングに向かい、椅子に深く腰掛ける。目の前には仄かに湯気の立つ白いお米に熟れた果物、一際目を引く黄色いたくあんに、白菜の味噌汁に。
家族揃っていただきます、と手を合わせる。
惰性で点けた画面の向こうからは今日の天気と共に1日の命運を決める占いが流れており、その日の自分の運勢が一番だったことになんとなく嬉しい心地がして口元が綻ぶ。
忙しない家族の足音をBGMに、ゆっくりと支度をして家を出る。扉を開けた時にパッと飛び込んで来る光の、あのなんとも言えないそれが案外、嫌いじゃなくて。
学校に向かい、窓際の席でなんとなく授業を受ける。
帰宅時には通った事のない道を探索したり、本を買ったり、寄り道なんてしながら帰る自分を、そっと見守るように夕陽を背負ったりして。
扉を開ければまたいい匂いがして、手も洗わずにリビングへと向かう。今晩はもくもくと湯気の立つ白菜のお鍋。
それに口許が緩み、遅れてただいまって言う。
顔と手を洗って、椅子に深く腰掛ける。
本棚を作る。本でいっぱいになったらまた新しい本棚を作る。何をしたっていい、平和な世界。
いいだろうな。
_そう水底に消えたまちを見て、もう訪れることの無い
平穏な日常を思ったら、温かな何かが頬を伝った。
『愛と平和』
すぐ近くで銃声音が轟いている。
…なんてことはなくて、今日も窓の向こうにはつまらなくて酷く平穏な日常の風景が続いている。惰性で数学教師の安眠を誘う声を聴きつつぼんやりと何処までも続く空を眺めた。
_二年前、丁度こんな風に暖かな陽射しの落ちる中、海を隔てたうんと遠い国が軍事侵攻を始め、ものの一瞬で三分の一もの地域が武力によって堕とされた。画面の向こうでは自分と然程変わらない年頃の者たちが涙を流し必死に逃れようとしている映像が垂れ流されていて、そんな様子を自分は迫り来る時間に急かされながらご飯を掻き込んだ。
何処までいっても僕らには他人事だった。
漫画にありがちな主人公とやらは、いつだって観るものに希望を与える。まるで、自分たちこそが主役であるかのようによりリアルな非日常を味わわせてくれる。
彼らは言う、愛は世界を救うと。
なんて陳腐な言葉だ。でもこんな何処かで聞いたような台詞を意気揚々と宣っても、それすら涙を流し聞き惚れる者もいる。なんて不思議な世の中だろうか。
馬鹿げた世の中だ。
もし自分たちが彼らと同じように、ある日突然、自分たちの住む場所が大国によって進行され滅茶苦茶にされたのなら、そんなものを信じられるのだろうか。本当に愛は救ってくれるのか、全てを元通りにしてくれるのか。
愛なんて不確かなものにどうにかされる訳がない。
でも、誰かをいとしく思う思わなければ心を保っていられないこともまた事実。人は独りでなど生きられない。誰かに依存しながら生きていく。結局どっちが真実なのかわからないんだ。
でも本当は思うんだ。気障ったらしくて認めたくはないけれど、愛は凄い力なんじゃないのかと。だって皆が手を取り尊重し、互いを愛せば争いなんて生まれないのだから。
愛と平和はイコールなのだと。
そう窓の向こうをぼんやりと見つめ考えていたら、
後ろに迫った数学教師の鈴木に宿題を増やされた。
『過ぎ去った日々』
_ふと目が醒めた。
ガタンゴトンと小刻みに振動する電車は平日の昼間故か人もまばらで何処か別の世界に迷い込んだ錯覚すら受ける。
未だ薄らぼんやりとした眼を擦り擦り、上にキャリーバッグがあることを確認し、視線をずらして窓の向こうを眺める。
ここは何処だろう、木々の茂みが差し迫って硝子が不快な音を奏でている。とりあえず緑のないあの都会からは遠く離れたことだけは確かだ。再度眠りにつこうと思っても変に目が覚めてしまい手持ちぶたさで左手の爪を眺めた。そこは僅かに濡れそぼり、自身が泣いていたことを知る。過ぎゆく景色に、ゆっくりと記憶が溶けていく。
……あの人は一目惚れだと言った。
断っても断っても諦めず、終に折れた自分はあの人を受け入れて、それで…。それでいつしか、知らない景色も感じたことのない感情も、みんなみんなあの人の存在によって齎された。何をするにもあの人がいた。
自分はあの人なしでは生きられなくなってしまった。
突然、それが恐ろしく苦しいものに感じてしまい、そこからはもう、どうしようもなくなって、暴れて荒んで満足に生活することすら、できなくて。離れなければと荷物だけ持って家を解約し始発の電車に飛び乗った。
逡巡するそれは移りゆく風景と同じ速度で脳裏に還り、それにたまらなく気味が悪くなる。
一瞬あたりが暗くなる。トンネルにでも入ったのだろうが、自分にとってはそれがあまりにも長く苦しいものに感じた。
急に映り込んだ光に視界が麻痺する、と同時に目に飛び込んできたのは一面の青、蒼、あお。
凪いだ青。
美しいそれに目が冴える。それはまさしくあの人の目の色そのもので、慈愛に満ち満ちた優しい青だった。
あの人に何も言わずに出てきてしまったと思い出す。本当はもう二度と会わないと思っていたのに、沸々と後悔の念が押し寄せる。もうどこにも息苦しさなんてなかった。自分はひどく安心して重力に従い再び目を閉じる。
爽やかな風が暖かな陽射しが心地良い。駅に着いたら昼御飯を食べてそれから海に行こう。沢山写真を撮って、それから次はあの人も誘ってもう一度。
過ぎていった思い出とこれからを、あの人と共に過ごそう。
『お金よりも大事なもの』
「ねぇ、おかあさん…にゅういんしちゃってごめんなさい」
娘が私にそう言った。
私は満足のいく応えを出せず声に詰まってしまって、それを見た彼女はホロリと大きな雫を落とした。
その透き通るような純粋はまだ齢十あまりのこの子の清いものだけを濾過しているようで美しさすらある。
頬を伝うそれに映る、これまでのこと。
この子がお腹にいた時から毎日話しかけ、生まれた時には喜びのあまり旦那と抱き合ったこと、旦那が家を出て行ったこと、中々お乳を飲んでくれず病院に駆け込んだこと、喘息を発症して病院に入院し始めたこと、小学校の入学式や運動会で踊れるように学校が手を尽くしてくれたこと、何度もクラスメイトの子が病室まで訪ねてくれたこと…。まだまだある挙げてもキリがない思い出がまるで走馬灯のように流れてきて首を振る。だめだ、まだこの子は生きなければ。
落ちる雫が陽光に煌き、ハッとする。
この子に心配をかけてはいけない、お金のことなんて気にしないで欲しいと言わなければならない。思い出してる場合ではないのだと。
「お金なんてそんなもの…気になんてしないでいいよ。あなたの為ならお仕事も更に頑張るしそれに」
あなたはこの世のすべてよりも大切な子よ。
安心させるように笑ってみせた。でも、上手くできてるかわからない。それでも愛しい娘、あなたのためならなんだって。
ふんわりと笑うあの子との思い出。
お題「月夜」
なんとはなしに空を見上げた。
視界には辺り一面の星空…ではなくただありふれた暗闇と
少しの星。別段普段と変化はなく、広がる夜空に溜息を溢す。白む息が蒸気となって景色に滲む。
あれが冬の大六角だよと、教えてくれたのは彼女だった。
自分は彼女の寒さで余計に白くなった細い指に目を奪われてそれどころではなかったけれど。
寒いからと理由を付けて、手を差し出す。仄かな月明かりに照らされた横顔に、涼やかな声に、柔らかな眼差しに。
幸せな時間だった。いつまでも続けば良いと願った幸福。
たぶんあれは幸せだった。
彼女が居なくなって、もう8年。