『過ぎ去った日々』
_ふと目が醒めた。
ガタンゴトンと小刻みに振動する電車は平日の昼間故か人もまばらで何処か別の世界に迷い込んだ錯覚すら受ける。
未だ薄らぼんやりとした眼を擦り擦り、上にキャリーバッグがあることを確認し、視線をずらして窓の向こうを眺める。
ここは何処だろう、木々の茂みが差し迫って硝子が不快な音を奏でている。とりあえず緑のないあの都会からは遠く離れたことだけは確かだ。再度眠りにつこうと思っても変に目が覚めてしまい手持ちぶたさで左手の爪を眺めた。そこは僅かに濡れそぼり、自身が泣いていたことを知る。過ぎゆく景色に、ゆっくりと記憶が溶けていく。
……あの人は一目惚れだと言った。
断っても断っても諦めず、終に折れた自分はあの人を受け入れて、それで…。それでいつしか、知らない景色も感じたことのない感情も、みんなみんなあの人の存在によって齎された。何をするにもあの人がいた。
自分はあの人なしでは生きられなくなってしまった。
突然、それが恐ろしく苦しいものに感じてしまい、そこからはもう、どうしようもなくなって、暴れて荒んで満足に生活することすら、できなくて。離れなければと荷物だけ持って家を解約し始発の電車に飛び乗った。
逡巡するそれは移りゆく風景と同じ速度で脳裏に還り、それにたまらなく気味が悪くなる。
一瞬あたりが暗くなる。トンネルにでも入ったのだろうが、自分にとってはそれがあまりにも長く苦しいものに感じた。
急に映り込んだ光に視界が麻痺する、と同時に目に飛び込んできたのは一面の青、蒼、あお。
凪いだ青。
美しいそれに目が冴える。それはまさしくあの人の目の色そのもので、慈愛に満ち満ちた優しい青だった。
あの人に何も言わずに出てきてしまったと思い出す。本当はもう二度と会わないと思っていたのに、沸々と後悔の念が押し寄せる。もうどこにも息苦しさなんてなかった。自分はひどく安心して重力に従い再び目を閉じる。
爽やかな風が暖かな陽射しが心地良い。駅に着いたら昼御飯を食べてそれから海に行こう。沢山写真を撮って、それから次はあの人も誘ってもう一度。
過ぎていった思い出とこれからを、あの人と共に過ごそう。
3/10/2023, 1:00:40 AM