【記憶バンク(銀行)】という仕組みができたのは、ほんの2、3年前のことです。
人類の長い歴史において現代は、たび重なる不祥事や政治不信による、制度や仕組みの改変が続く、極めて不幸せな時代です。誰の目にも、どんどん生きづらい社会になっていくことが明らかであります。そこでは「長寿」というものが、まったく羨ましいものではなくなってきております。
皆さんも感じておりますでしょう?
長生きをすればするほど、苦しい現実が付き纏ってくる。
それだけでなく、心身の衰えや、健康維持の困難さ、社会的弱者に向かっていくことの重圧もあり、誰も健康な老人を目指そうとは思わないでしょう?
そうした中で、「年老いた身体で持て余すより、若い時に元気を先取りした方が、人生を謳歌できるだろう」というコンセプトの元、老後の先取りを勧める風潮が話題です。
そのひとつが【記憶バンク】であります。
仕組みは単純であります。
脳の機能、特に記憶や感覚の部分を早いうちから活発化させることで、健康な若いうちにより幸せな生活を送れるようにしようとする、一種の医術行為です。脳のオーバークロックとでも言いましょうか。
年老いた体は、言うことをきかなくなって使い物にならない。旅行や課外活動に出かけるのも一苦労です。そんな大変な毎日を、記憶させられるくらいなら、その分のメモリーを若い時期に持って来てしまおうというわけです。
実際、この【記憶バンク】の登場を、皆さん大いに喜んでおります。
わかりやすい所では、記憶力の向上により、人々の学習能力が飛躍的に進歩しました。普段の生活における、あらゆる行動が効率的に行われ、今までの労力の数パーセントで日常生活を賄えるようになったのです。
1日1時間も働けば、十分に今までの給料に見合う仕事をこなせられる。なのでその分、ふんだんな予後の時間を手にすることが出来たわけです。
また、その空いた時間にも【記憶バンク】は貢献します。子どもの頃の豊かな発想や想像力を、通常より大きく働かせられることで、日常の些細なことにも感動を覚えることができます。それにより、今までにない芸術的な活動家や作品もでてきて、文化的な生活が大いに進歩しました。これまでに無いほど、あらゆる娯楽が潤滑に巡る社会になってきたのです。
それもこれも、老後の脳機能、こと記憶能力を先取りできているためです。
どうせ歳を取れば、記憶は曖昧になり、物忘れが激しくなる。人の名前はおろか、自分の身の回りの事も分からなくなっていく。そうした、負の未来を効率的に活用できる、とても有益なことだと思いませんか?
さぁ、あなたも、ぜひ【記憶バンク】のご利用をご検討ください。
…………なんだ、コマーシャルか。
……もう、朝なのか。
……あぁ、またどこだか分からない人の家で目が覚めている。
……自分の名前、それもどうやら思い出せない。
…………結局、老いてしまうんだ。人間は。
……あぁ、つらい。
……こんなの、つらすぎる。
…………なにがつらいって?
……こんなにも、“何も思い出せない”ことがつらすぎるんだ。
……あの、若い時に持っていた、「先取り」していた溢れんばかりの幸福を。
…………何も……思い出せない。
………………あれ、どうして、思い出せないんだっけ?
【遠く……】
昼下がりの喫茶店で、しばらくの間、「お付き合い」という形でお互いを慰めあってきた男女が語らいだす。
「ねえ、どう思う?」
彼女の開口は、いつも唐突だ。
アイスコーヒーを、一口して。
「なにが?」
主語を求めて、返答する。
「最近の、私たちの感じのこと。どう思う?」
多くを語らず、けれども察しを求める答え方。
こういうのは、いつも単調に応じることでやり過ごす。
「んー。いつもどおり、じゃない?」
平凡、それでいい。
気取った言葉を求めてないのは、なんとなく分かる。
ばつが悪くなったわけでもないが、間をつなぐためのアイスコーヒーを、また一口。
彼女の方も、カフェラテをそっと一口啜る。
両手で優しくカップを覆って、そっと優しく啜る。
「なんかね、前よりも冷めてる感じなの」
言い終わるのが先か、カップを置くのが先か。
ただなんとなく、かちゃりと鳴ったその皿が、場の空気を大きく区切ったように思えた。
深刻そうな申告ではない、そう思っておく。
「そうなんだ」
だから返事も、なんとなく。
彼女が、どう思って、どうしたいのかは、予想するしか出来ない。
だから決めつけるのも良くない。
好転しようと、荒転しようと、どちらでもかまわない。
「前はさ、いつも楽しく会話してたと思うの。何気ない話題で、なんとなく盛り上がって、ダラダラと時間を費やしてさ。それでさよならする時に、まだ帰りたくないって気持ちが、なんか残ってて」
彼女が気持ちを入れて話をする時、たいてい伏し目がちになって、テーブルの上で指を組んで、それをくりくりと捏ねる。
「でもさ、今は前より会っても盛り上がらない感じがするの。前みたいに、大したことない話題で、ずっと会話することも無くなってる気がする。そういうと、今までは無理して話してたのかなって気持ちになってきてさ」
彼女はそこから二言、三言つづけた、ように思う。
ただ聞き流していたから、よく思い出せはしない。
「どうしてさ、人は身近になると、気持ちが離れていく感じがするのかな」
問いかけられた。万に一つも当てられない問いを。
この答え方次第で、なにが変わる訳でもないので、気負わず返す。
「遠いときには、まだ関心があるからじゃない?」
「関心?興味ってこと?」
「そうだね、興味かもしれない。人と人は、もともと離れているものなんだ。つながりのないもの同士なんだ。
それがある時、自分と重なる何かを、ほかの誰かに見つける。すると、その人を知りたくなってしまうのが、人間の性格じゃないかと、僕は思う」
ダラダラと屁理屈を垂れ流す。
彼女は少し目線を上げて、聞き耳を立てる。
「前は、相手を知りたかったから、話がつづいたんだ?」
「離れた場所にあったものも、手を伸ばそうとすればそれは、遠くにあるものだ。近づこうとしたそのとき、そこに距離感は生まれると思うね」
「なんか、変だね。人間って」
「遠くにある人を知りたいから、トーク(会話)するんだよ、僕たちは」
「ふっ、何それ」
「今は近くなったんだよ。会話しなくたって、知覚できてしまうのさ」
「だから、何それ。シャレ?」
「ただの独り言」
「つまんなー、ふふっ」
午後の喫茶店で、また僕たちはお互いの距離について、離していく。
純粋な風はありえない。
風はいつも、何かを一緒に運んでくる。
目に見えるもの、小さくて細かいもの、目には見えないけれど感じれるもの。
言葉や思いなんてものも、運び出してくれるかもしれない。
風が吹く度に、この世のあらゆるものは循環をはじめ、留まっていたものはぞくぞくと動き出す。
そう思うと、風はだいぶと迷惑なヤツだ。
この世には、他のものと交じりたくない。ひとりでいたいものだっているはずだ。
わざわざ表に駆り出して、見たこともない場所へ運び込まれて、何かも分からないものとごちゃまぜにされるなんて、とんでもないこと。
そうやって、周りを巻き込まないと気が済まないのだろうか。
風の音は、大きい小さい関わらず、微かに「泣き声」のように思う。
風が泣いてるのは、誰かと交ざりたい寂しさ、なのか。
どうしたって、ひとりで吹くことが出来ない、不幸のせいなのか。
だから、風はよく、雨を纏う。
「泣いてる」風には相応しい。
そしてその「泣き声」が止むのは、何も変化しない、誰にも混ざらない、純粋な孤独。
無風の時だけなのだ。
さて、問題。
“ある少年がいた。彼は戦争により、両親を早くに亡くしてしまった。
幼い日々を、孤独に生きてきた少年は願った。
『世界から争いがなくなりますように』
成長した彼は科学者の道を進み、世界を平和にするために尽力した。
その結果、世界は「平和」になった。
彼は、何をしたのだろう?”
ある人は、彼を説明するのにこう言った。
“彼は、科学の力でもって、世界にはびこるあらゆる争いを無くそうとした。
そのためには、あらゆる力を超えたものが必要だ。どんな争いをも終止させることのできる、強大な力が。
彼は、「核兵器」を生み出した。
世界は「平和」になった。”
またある人は、彼を説明するのにこう言った。
“彼は、有名な科学者となり、様々な成果を上げた。
それらは人々の生活を豊かにした。
苦労も、悩みも、煩わしさも、科学が解決してくれた。
便利な生活は、人々から、争う理由を消し去った。
彼は、「豊かさ」を生み出した。
世界は「平和」になった。”
また別の人は、こう説明した。
“彼は、小さいころの記憶を忘れることが出来なかった。
家族を失った悲しみから、救われることがなかった。
だからこそ、人一倍、平和を願う気持ちが強かった。
日々、祈り続け。日々、訴え続け。日々、願い続けた。
誰よりも、平和が叶うことを望んだ。
そんな彼を見た人々は、心を動かされ、平和の歩みは、彼を中心に広がっていった。
彼は、「希望」を生み出した。
世界は「平和」になった。”
物事の善し悪しを決めるのは、いつだって他者だ。
物事の真実を知る当事者は、善も悪も決定することは出来ない。
それを、この問いは教えてくれる。
ちなみに、彼自身はみずからをこう説明した
“わたしは、争いのなかに生きていた。
両親をうばわれ、孤独な幼少期を過ごし、不穏な毎日だった。
けれど、それは「仕方のないこと」だ。
その時代が、そうだからだ。
争いの時代に生きているならば、争いのために生きることが、最適だ。
だから、わたしは科学者を選んだ。
そうすれば、争いに貢献できるから。
いち早く、「平和」を求めるならば、争いが終わればいい。
自ら争いに踏み入って行くことこそ、最適だ。
争いの兵器を生み出し、早くこの世界に「平和」を。
優れた兵器はその使用者を助けた。
戦地で功績は称えられ、重宝された。
それも、各地で。
優れた兵器の産出国として、国は豊かになった。もう国内で争う必要もなくなった。
そうなっても、常にわたしは胸に抱いていた。
早くこの世界が、「平和」になるように、と。
……これでよかったのだろうか”
彼の、善悪を決めるのは、本人ではなく、やはり他者なのだ。
空を見上げた。
深い黒に染まった空。
満点の輝きが、広がっていた。
白い砂が光っているように、散りばめられていた。
その中に、ひときわ目立った光があった。
大きな、大きな、流れ星だった。
青白い尾を引いて、目も眩らむような存在感で。
見れば見るほど、惹き付けられた。
誰かから聞いたことがある。
「流れ星には、願い事を唱えてみな。きっと叶うはずだよ」
そうだ、願い事だ。
流れ星には、願い事だ。
どんどん輝きを増していく流れ星。
はやく願いを唱えてと、急かすように。
もう私には、その星しか見えない。
両手を胸の前に結んで、ゆっくり目を閉じた。
祈るように、唱えた。
「流れ星さん、どうか……」
耳元で、大きな音がする。
ぐんぐん、大きくなっていく。
だんだん、熱くなっている?
やっぱり。
だから、早く言わないと。
「……ここに、落ちてこないで」