あの人は今、どこを旅しているのだろう。
私や村民を救ってくれたあの人は、見返りも感謝も求めず、次の村へと旅立っていった。
私は両手を組み、祈りを捧げる。
今日もこの空の下で誰かの心を助けているヒーローへ。
どうか、彼の旅の行く末が祝福で溢れていますように。
今日、このあと雨が降ったらもう彼女と会うのを終わりにしよう。
彼女に会わない理由をひとつ、ふたつと積み上げていくたびに心が擦り切れそうになる。
結局、雨は降らなくて、私は今日も彼女と会う。
ふたりっきりの秘密基地で今日も彼女は微笑んでいる。
もう会わない、と彼女に一言告げれば終わるのに。口に出そうとすればするほど口の中が乾いて、言葉にならない。
バカな私。
彼女はスパイで、私を情報源としか見ていないのに。貴重な情報源という目でしか見ていないと私が気づいていると感づいていながら、彼女は今日も私に会いに来る。
愚かな私。
そんな彼女に恋をしている私は本当に馬鹿みたいだ。
この国の国民は、全員、自分の役を演じている。
表の顔は小学生で裏の顔は名探偵。
表の顔は高校生で裏の顔は義賊。
そんな風に誰しもが裏の顔を隠して生きている。
昼の間は表の役に徹し、夜になると裏の顔が動き出す。
昼と夜の顔を混同しないこと。
夜の顔に気づいても昼に持ち込まず、知らないふりをすること。
それが、この国のルール。
だというのに。
「ねぇ、井ノ上くん。手を組もうよ」
「一体何の話ですか、宮内先輩」
これこれ、と宮内先輩が見せてきた新聞には、最近流行りの猟奇殺人事件の詳細が書かれている。
「犯人見つけたくない?」
「そんなことただのひ弱な男子高校生には荷が重いですよ。他をあたってください」
嘘つき、と雄弁に書かれた瞳をスルーし、僕は珈琲を淹れる。
「手柄はきみに譲るよ?」
「他人に譲って得られる手柄はつまらないので」
「う~む。手強い」
天を仰ぐ宮内先輩に僕は人差し指を口元に当てた。
「その話は、月の住人になってからで」
微笑む僕に宮内先輩は笑う。
「それは、無理」
「貴女の脳を食べたい」
人間は自分が得たい能力の部位を食せば、その力を得られると信じてきた。
SNSではよく神絵師の腕を欲する声が上がる。
画力を上げたくて、腕を食べるのであれば、小説家ならば、脳を食べればよい、という思考になるとは至極真っ当な流れだと思う。
だから、
「貴女の脳を食べたい」
二度繰り返した私の言葉に彼女は笑う。
「私の脳なんて食べたら人間らしく生きることは出来ないよ。私、生活力ないし」
「それでもかまわない」
私は、私の物語を思い通りに書き写せるのならそれでかまわない。
彼女は聖母のように微笑みをたたえ、言う。
「いいよ、私が死んだら脳は貴女にあげる」
純血ではない俺はこれまでも、ここからもずっと、この地を納める聖巫女になる彼女の従者になることはない。今のように傍にいられることもきっとなくなる。それはずっと前から分かっていたことだ。少しでも彼女と顔を合わせても問題ないほどの地位を得ようと、鍛錬を積めば積むほど彼女との身分差に打ちひしがれる。ただただ自分の力の無さに絶望しても、歯を食いしばって前に進むしか方法はなかった。
それなのに、これは一体何の罰だろうか。
異世界から召喚されたぽっと出の女に彼女が聖巫女の座を奪われるなんて誰が想像していただろう。