幻覚

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6/2/2024, 9:55:45 AM

『梅雨』

この土地の腹立たしいところはこうしてひたすら雨の降る期間があるところだった。身体に湿気が纏わり付くような気がして不快だし、髪もうねって普段よりもセットに時間が掛かってしまう。貴族として見苦しい姿を晒すわけにはいかず、苛立ちながら鏡の前で格闘することになる。
「ククク、気が立って居るな」
後ろから恋人が覗き込んできた。彼は直毛なのでこう言った悩みとは無縁らしい。珍しい物を見た、と言うようににやにやと笑われるのが腹立たしいような、楽しげな恋人が見られて気分が上向いたような。

5/27/2024, 1:06:38 PM

「天国と地獄」

父が死ぬまで、自分は幸福だった。父が死んだのは自分が高校に上がった頃か、或いはまだ中学の頃で、そんなガキの言う幸福なんて大袈裟な話ではあるが。
父は人望に溢れ、常に人の中心に居た。家には毎日のように父を慕う人間が訪れ、自分にもよく話しかけて来た。彼等がそう言うように、自分もいつか父のようになるのだと信じていた。
父が死ぬまでは。
父が死んで、父を慕っていた筈の人々は揃って掌を返した。気付いた時には家から金も金目の物も消え去っていた。母は現状を受け入れられずに過去に閉じこもってしまった。その後しばらくの事は、自分の記憶にも無い。
ひとつ確かなのは、人間なんてどいつもこいつも信じられないと言う事だ。

5/20/2024, 12:05:01 PM

「理想のあなた」

「そんな人だと思わなかった」そう言われて振られたのは何度目だろう。一体どんな男だと思われて居るのだろうとその度に悩んだ。好いた相手のためならば理想を演じてやろうと思うのに、それが分からないからいつも上手くいかなかった。

なんてことの無い会話だった。いつも通りの、大して中身も無い、数時間後には忘れているような。些細なことで笑いあったその顔が、今まで幾らでも見てきた筈の顔が、胸に刺さって離れなくなった。俺は挙動不審では無かっただろうか。視線を外して、それでも脳裏から消えない彼の顔に絶望した。彼を、好きになってしまった。何度も吐かれた言葉が谺する。彼は俺を、どんな人間だと思っているのだろう。

4/14/2024, 2:21:50 PM

『神様へ』

最初に感じたのは喪失感だった。

ずっと傍にあった物が無くなってしまったような。次いで全身の痛みを認識した。軋む身体に鞭打って目を開く。ふさ、と温もりが寄り添ってきて、相棒が隣に居ることを知った。擦り寄せられた頭を撫でてやろうとして、腕ひとつ上げるにも随分苦労した。流石は排撃貝と言ったところか。戦いの行方はどうなったろうか。奇妙なまでに静かな空に、不安を掻き立てられた。どうしてこんなにも、と考えて、神の存在が感じられないが故だと気付く。あの人程の心綱を持たずとも、あの強大な気配は国の何処に居ても感じられるものだった。

神はもう行ってしまったのか。空を見上げても、青く澄んだ空には月の影はなかった。

4/10/2024, 4:47:49 PM

『春爛漫』

このところの陽気で桜が見頃を迎え、天気も気持ちの良い晴れとなれば、突発的に宴が開かれるのも当然の流れだった。気分良く盃を傾けて居ると、隣にどさりと腰を腰を下ろした男が居る。

「花なんか見ても酒の味は変わらねェだろうが」

理解できないという声でそう言って煙草を吹かすものだから、上がる口角を隠すように盃を干した。こんな突発的に開かれた宴に出る義理なぞ何処にも無いのに、こうして隣に座るのだから。並べておいた酒瓶を適当に手に取って口を付けて飲み始めるので周囲の者がそわそわし始めたのを手を振って収める。酒は共に飲む方が美味いものだ。

「お前の髪も桜色だよな」
「ア?」

背中に流れる髪を一房手に取る。

「この辺に咲いてるやつより濃い色してんな。山の方のやつに似て」

ばしりと手を振り払われる。歪められた口元から煙草が落ちそうになっている。

「テメェ良くそんな恥ずかしいこと言えるな……」
「そうかあ?」

思った事を言っただけだぜ、と笑えば、照れ隠しだろう、強めに腹を叩かれた。

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