いのり

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6/23/2024, 4:15:48 AM

「日常」

 ある日、私は突然会社に行けなくなった。
 仕事に行きたくないのは、入社してすぐから2、3年は続いていたが、だんだん起きる時間が遅くなり、ここしばらくは家を出る20分前に起床、慌てて最小限のしたくだけして出掛けていた。
 その日は起き上がる気力が全くなかった。会社に行かなくてはならないと思う頭に対して、体が拒否していた。
 私は、かなりの気力を使い職場に電話をして、体調不良で欠勤することを伝えた。すみません、すみません、と何度も言っていた。電話を終えた後の安堵感は、魔法のように私の緊張を和らげた。
 私はうつ病と診断され、長期の休養を命じられたが、全てに自信を失っていたため、誰にも相談せず退職届を提出し受理された。
 そして今までの日常と訣別した。

 あれから5年経ち、現在の私は、もう内服も通院もしていない。
 スーパーで、開店前の品出しと閉店前後の値引きシール貼りや陳列品の整頓といったバイトをしている。昼間は自宅で家事をしたり、ときには街へドーナツを食べに行く。
 これが今の私の日常だ。

 そして次の日常を模索しているのである。
 

6/22/2024, 7:13:33 AM

「好きな色」

 金曜日の21時。仕事帰りの私は、JR錦糸町駅のホームで電車を待っている。いつも東京スカイツリーが見える同じ場所だ。
 スカイツリーは、今日も光のグラデーションを少しずつ変化させながら輝いている。先端がアイスブルーからアイスグリーンへ、展望台辺りはホワイトに、その下の長いところは全体的にうっすら白かったりアイスブルーになったりしながら、ラメをちりばめたように光の点がたくさんキラキラしている。時折上下に移動している小さな赤い光の点はきっとエレベーターだろう。
 日々、光り方や光の色を変えているので、私は飽きることなく見ているのだが、他にこの時間にホームでスカイツリーを見ている人をほとんど見ない。たまにスマホで写真を撮っている人達は誰かと一緒で、ただの勘だが、毎日この駅に来ている人達ではないと思う。

 いつもの総武線快速に乗り、千葉方面へ向かう。窓の外はいつもと同じ色の明かりだ。そして少しずつ明かりが少なくなっていく。
 それでも私が子どもだった時の夜は、もっとさみしかった。今の夜の光の色はもちろん当時はなかった。いつかのスカイツリーは、虹の7色だった。
 いくつもの色があると、とてもきれいだと思う。昔からパッチワークが好きなのだが、布を断って縫い合わせることより、色合わせが1番楽しい。
 好きな色を聞かれても、1つには決められない。

 ふと、つり革につかまった自分の姿が、窓に映っていることに気づいた。
 今日は、黒のカーディガンに、黒地に白の小花柄のスカートというモノトーンコーデだった。
 実は、こういうのも好きなのだ。

6/21/2024, 8:04:41 AM

「あなたがいたから」

 もうすぐ30回目の結婚記念日だ。真珠婚式と言うらしい。
 正直に言って、よくここまで我慢できたものだ。
 夫は漁業なので、収入が不安定な上に薄給のため、看護師の私が夜勤をしたり、2人の子ども達が小さいうちは日勤のパートにしてもらいながら、育児や家事をこなした。もちろん夫にも協力してもらったが、毎日へとへとで文句を言う余裕はなかった。
 50歳を過ぎた今、子ども達は社会人となり、休日には1人で遠出をして美術館やデパート等に出掛けている。夫は家でテレビを観ていたほうが良いそうで、やはり気が合わないのである。

 私達が出会ったのは、結婚する前の年だった。まだ20歳前半で、町役場に勤め始めた頃、ある50歳代の女性職員から、しつこく町のテニスサークルに来るよう誘われた。山田さんというのだが、いろいろ理由を言って断っても毎週必ず誘ってくる。1度行って、やっぱり合わないからと断れば良いか、と行った所で夫と出会ったのだ。
 しかしそれからは夫からの誘いがしつこく来るようになった。テニスサークルのメンバー数人でドライブに行こうという誘いだった。仕方なく、こちらも同様に1度だけのつもりで行ってしまった。そうとはいかず、夫は個人的に誘って来るようになった。当時から全くタイプではなかったものの、仕事が上手くいかない辛さもあった上に、頼れそうな存在に安心感を抱いたように思う。
 そうして付き合うようになり、今に至っている。

 結婚が決まった時、テニスサークルに誘ってくれた山田さんは、驚いていたし、がっかりしていたようにも見えた。
 そして私は出産を機に役場を退職した。山田さんとの付き合いは途絶えた。キューピッド的な役割を果たしてくれたけれど、山田さんの意に沿わない結果となってしまい、申し訳ない気持ちだった。後で聞いた話しだと、山田さんは自分の息子を会わせたかったらしいのだが、私が1度だけ行った日はたまたま用事があって来れなかったらしい。

 良かれ悪しかれ私の運命を決めた山田さん、あなたがいたから、今の私があるんですよ。
 こんなことを思うのである。

6/20/2024, 7:05:35 AM

「相合傘」

 洋子は今年56歳。結婚して30年になる。2人の娘は既に社会人となり、それぞれ独り暮らしをしているので、今は夫と二人暮らしである。
 育児が落ち着くと、年齢による体力の衰えと、更年期の影響もあってか体調がすぐれない日が増えてきた。そのため、最近、フルタイムの仕事を9時から15時のパートに変えてもらった。介護施設の看護師だが、残業はほとんどなくなり、冬でも明るい時間に帰れるのはとても嬉しい。
 帰宅後に慌てて夕食の支度をする必要はなくなった。スマホのレシピサイトを見て、少し手間のかかる料理に挑戦してみることが増えた。
 この年齢になって、やっと時間の余裕と心の余裕は比例していることを実感した。
 そのうち、料理中はもちろん、家事をしている間に、過去の出来事を思い出すことが多くなった。子ども達のこと、仕事のこと、独身時代のこと…。楽しかったことも、思いどおりにいかなかったことも、今となっては後悔していることなどが、頭の中で再生されていく。

 ある日、夫と初めて会った日のことを思い出した。何年も忘れていたことだ。
 洋子の職場の近くの公民館で、週に1回、読書会が行われていることを知り、参加することにした。読書が好きなのだが、自宅近くにはそのような集まりがなかったので、面白そうだと思ったのだ。
 その初日、会が始まってしばらくした頃に雨が振りだした。予報では雨は降らないと言っていたので傘は持って来ていなかった。会が終わっても大雨は止まず、もうすぐ止むだろうと思いながら、ロビーの椅子に座って本を読みながら雨宿りをしていた。
 そこへ声をかけてきたのが、夫だった。読書会の参加者は、ほとんどが公民館の近くに住んでいて、洋子が電車で帰ることを知って驚いていた。

「相合傘になってしまいますが、もしよろしければ…」

 真面目そうな雰囲気を信用して、駅まで送ってもらったのだった。それが洋子にとっては、今のところ人生でただ1度の相合傘である。

 思い出の懐かしさで胸がいっぱいになり、幸せな気持ちになってきたのも束の間だった。
「あっ」
ふと我に帰って気づくと、鍋の中のかぼちゃの煮物が黒く焦げていた。
 余裕がありすぎるのも良くないな、と思った。

6/19/2024, 9:46:22 AM

「落下」

 まだ暑さが残る初秋の9月、家族でハイキングに出掛けた。
 都心から電車で2時間程の、初心者に人気のある山で、まだ青い葉がほとんどだった。
 小6と小4の息子は、元気に小走りで私と夫の先を行く。私達夫婦はアラフォーで、2人ともフルタイムで働いているが、普段運動はしていない。
そのため、子ども達に追いつくことは最初からあきらめていた。
 20分くらい歩いたところで、遊歩道の脇から遠くに、また別の山々、そして谷の下には登って来た遊歩道が見えた。
「山登りは人生と同じだなぁ」
と夫が言うが、私は息切れもあり、返事はしなかった。
 その時、小4の息子が戻って来て、
「お父さん、お母さん、どんぐり!」
と両手を広げて茶色いどんぐりを5、6個見せてくれた。
「おお、もうどんぐりが落ちているのか」
と夫が言った。
「いっぱいあったの?」
と私が訊ねると
「少しね」
とだけ言って、また先へ行ってしまった。
 秋が深まれば、木の実も木の葉もたくさん落ちて、季節を知る自然は、人に季節の移り変わりを教えてくれるのだろう。

 そうこう歩いて行くうちに頂上の広場に着いた。先に着いていた息子達は
「喉が乾いた」
「お腹がすいた」
といいながら戻って来た。
運良くテーブルと椅子が空いていたので、途中コンビニで買って来たおにぎりと枝豆を食べた。他のハイキング客はさほど多くなく、大丈夫そうだったので、その場所でもう少し休むことにした。
 谷を見下ろすと、
「あぁ、俺たち、底辺からここまで来たんだなあ」
と夫が言った。 
 確かに昔のお城は、皆、高い場所に築き、周囲を見ながら国や自分達を守っていたのだろう。
 しかし不思議と、高い所から低い所を見下ろすと優越感に浸れる。
 そこへ売店にアイスを買いに行っていた息子達が戻って来た。
「あっ」と小4の息子が言った。
手が滑ったのか、蓋を開けたカップアイスを見事に逆さまに落とした。
 悲しげな息子に夫が
「それを片付けたら、また買ってくればいいよ。アイスは落としても、お金は落とすなよ」
と言った。
 私はゴミ入れ用に持ってきたビニール袋を渡し、息子は落としたアイスを片付け、また買いに行った。

 そして私達は、来た道を戻って、現実の世界に
帰った。
 私は優越感から劣等感へ落下していく気持ちだった。ふと、どんぐり達はどのような気持ちで落下したのだろうと思った。

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