いのり

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「相合傘」

 洋子は今年56歳。結婚して30年になる。2人の娘は既に社会人となり、それぞれ独り暮らしをしているので、今は夫と二人暮らしである。
 育児が落ち着くと、年齢による体力の衰えと、更年期の影響もあってか体調がすぐれない日が増えてきた。そのため、最近、フルタイムの仕事を9時から15時のパートに変えてもらった。介護施設の看護師だが、残業はほとんどなくなり、冬でも明るい時間に帰れるのはとても嬉しい。
 帰宅後に慌てて夕食の支度をする必要はなくなった。スマホのレシピサイトを見て、少し手間のかかる料理に挑戦してみることが増えた。
 この年齢になって、やっと時間の余裕と心の余裕は比例していることを実感した。
 そのうち、料理中はもちろん、家事をしている間に、過去の出来事を思い出すことが多くなった。子ども達のこと、仕事のこと、独身時代のこと…。楽しかったことも、思いどおりにいかなかったことも、今となっては後悔していることなどが、頭の中で再生されていく。

 ある日、夫と初めて会った日のことを思い出した。何年も忘れていたことだ。
 洋子の職場の近くの公民館で、週に1回、読書会が行われていることを知り、参加することにした。読書が好きなのだが、自宅近くにはそのような集まりがなかったので、面白そうだと思ったのだ。
 その初日、会が始まってしばらくした頃に雨が振りだした。予報では雨は降らないと言っていたので傘は持って来ていなかった。会が終わっても大雨は止まず、もうすぐ止むだろうと思いながら、ロビーの椅子に座って本を読みながら雨宿りをしていた。
 そこへ声をかけてきたのが、夫だった。読書会の参加者は、ほとんどが公民館の近くに住んでいて、洋子が電車で帰ることを知って驚いていた。

「相合傘になってしまいますが、もしよろしければ…」

 真面目そうな雰囲気を信用して、駅まで送ってもらったのだった。それが洋子にとっては、今のところ人生でただ1度の相合傘である。

 思い出の懐かしさで胸がいっぱいになり、幸せな気持ちになってきたのも束の間だった。
「あっ」
ふと我に帰って気づくと、鍋の中のかぼちゃの煮物が黒く焦げていた。
 余裕がありすぎるのも良くないな、と思った。

6/20/2024, 7:05:35 AM